湯冷まし怪談
白木錘角
逆さ蛇口 その1
体を洗って二十分、湯舟に浸かって三十分……。
何年経っても、この習慣だけは一向に抜ける気配がない。この時間に科学的な根拠があるわけではないと知っていても、体に染み込んだ慣れに今さら抗う気も無かった。
頭と体を念入りに洗い、使った桶をひっくり返してから浴槽へ。
道中で冷えた足先から両肩までを湯に通せば、心地よい痺れを合図に湯と肌の温度が混ざり合う。はぁっ、と吐いた息は上へと立ち上り、真っ白な湯気の雲に消えていった。
「本日もお疲れさまでした」
鈍く響くガスボイラーの音に混ざって、そんな声が聞こえてくる。
「もういらっしゃったんですね」
「えぇ、一足早く」
控えめな、それでいてたしかな存在感を示すその低音は、私にとって一日の終わりを実感させるものになっていた。
「最近はめっぽう寒くなって……こちらに足を運ぶことも増えそうです」
「それは良かった。この時間ですとあなたくらいしか話し相手もいないですから」
カコンッ……。広い空間に響く桶の音は、彼が語り始める合図だ。
「ではさっそく話を始めましょう……。今宵の話は……そうですね、"逆さ蛇口"とさせていただきます」
―—逆さ蛇口―—
―—小学生だった頃を思い浮かべてみてください。あの古ぼけた、あるいはぴかぴかの校舎にランドセルを揺らして通っていた頃の記憶です。
喉が渇いた時、校舎のあちこちにあった蛇口を捻って水を飲んではいませんでしたか? こう、蛇口をくいっと逆さにして、噴水のように水を出して……鼻に入ってむせるのもまた一興。そんな思い出もあるでしょう。
そして、先生から蛇口を逆さのままにしないよう怒られた記憶もありませんか?
とある少年―—ケイタくんは、そんな先生の注意を守る律義な子でした。自分が飲んだ時はもちろん、逆さになった蛇口を見かけたら小まめに直すような、そんな模範的な男の子をイメージしてみてください。
さて、そんなケイタくんですが、物覚えはあまり良くなかったようで……ある日、円の面積を求める問題がどうしてもできないということで、放課後に残って計算問題百問を解く練習をさせられていました。
先生が付きっきりで教えてくれたおかげで、なんとか七十問目までは解けたケイタくん。先生は会議でいなくなってしまい、残る三十問を何とか一人で進めていた時です。廊下の方からぽたん……ぱたん……と雫の落ちる音がするのに気が付きました。
いい加減難しい計算で頭が疲れていた上に、もう先生はいない。ケイタくんが机を離れ、廊下を覗きに行ったのも仕方のない話でしょう。
扉を開けてこっそり頭を出してみると、廊下の向こう側から小さな子供がこちらに向かって走ってくるのが見えました。背格好からして低学年の子でしょうか、小さな足を懸命に伸ばして向かってきます。
階段の方に行くのかと思いきや、その男の子は廊下の途中、水道があるところで立ち止まり、蛇口の一つ一つを逆さにし始めました。それも、蛇口に口までつけているではありませんか。
相手が自分より小さな子供というのも相まって、俄然正義の心が燃え上がったケイタくん。足音高く近づき、注意をしようとしたその時です。
男の子が顔を上げ、ケイタくんの方を見ました。
ケイタくんが驚いたのも無理からぬ話。先ほどまで蛇口に付けていた口からは赤黒い液体が漏れ、そして両目が白く濁った顔がそこにあったのですから。
半ベソをかきながら、ケイタくんは階段を駆け下り職員室に逃げ込みました。ノックも一礼もせず入ってきたので体育の先生に怒られましたが、そんなこと気にする余裕はありません。だって、階段を駆け下りている時に、後ろから迫ってくる上履きの音をたしかに聞いたからです。
学年主任のお爺ちゃん先生に泣きつき、一緒に戻った廊下には、もうあの男の子の姿はありませんでした。けれど、逆さになった蛇口はそのまんま。元に戻すと、赤黒い液体がどろっと流れ出たそうです――。
湯冷まし怪談 白木錘角 @subtlemea2
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