ルゥルア

鈴木 千明

第1章:祓魔師と堕天使

序:大天使

 光。堕天使の周りにあるものは、それだけだった。指を動かすことも、声を発することも、瞼を開くこともできない。言動の全てを制限された堕天使は、唯一自由に動かせる思考を以って、今はどうすることもできないと結論付けていた。それは諦めではなく、いずれ解放されるという予測が前提に有った。堕天使を〝どうすることもできない〟のは、天使たちも同じだ。

 光が揺らぐ。堕天使はよく知った気配を感じた。もし表情が動かせるのであれば、その眉をわずかに顰めていたであろう。

「やぁ、待たせてしまってすまないね。」

現れた天使は、すまない、と口にしながらも、全く以って申し訳なさなど感じさせない声を、光に囚われた堕天使に向けた。

「ふふ、おもしろいことになってきたよ。まさか、こんな神託を賜るなんて。君がどう成るのか、とても楽しみだ。」

その声音に、堕天使は凄まじく嫌な予感を抱いた。均一な靴音が、円を描く。堕天使には、天使が周りを歩いているということしかわからなかった。その際に、指先から光を零していることなど、知る由もない。再び堕天使の正面に戻ってきた天使は、美しい──堕天使にとっては不穏であろう──笑みを浮かべた。

「名を告げよ、きっさきにある者。」

堕天使は耳を疑った。これが神託による行為であれば、驚くなんてものでは済まない。過程も、結果も、前代未聞だ。

「と言っても、動かせる口がないか。ふふ、表情くらいは動かせるようにしておくべきだったかな。」

たとえ口が動かせても応えるわけがない、と堕天使は心の中で天使に毒づいた。

「鋒にある者、汝の名は、ベリアル。」

堕天使──ベリアルを囲んだ輪が光る。輪の内側に向かって、直線と曲線が伸びていく。その中心、光に囚われた体の真下に、自らを表す紋章シジルが浮かぶのを、堕天使は感じた。

「〝鋒に汝、示すは我。〟」

天使は笑顔を崩さないまま、言葉を紡いでいく。ベリアルはこの予測不能の事態を、ただただ受け入れるしかなかった。

「〝呼応する者、受け入れよ。我はつくる、汝を外に。〟」

ベリアルは魔界の管理者だ。今は訳あってほとんどの権限を失っているが、名目上は今も管理者であり、魔界に関する契約そのものでもある。そのため、ベリアルの力をこれ以上削げば、悪魔たちが人間界に干渉することも容易くなってしまう。それ故に、ベリアルは天使に拘束されてもさほど焦りを感じていなかった。いかにここが天界と言えど、力を削がないように拘束し続けるのは骨が折れる。そのため、しばらくすれば解放されるだろうと考えていたのだ。

しかし彼らの創造主は、その予測を超えてきた。おそらくは目の前の天使も驚いたことだろう。それ以上に楽しんでいる様が、ベリアルにとっては非常に癪だった。

「〝この手に委ねよ、汝が力。頂点を穿て、我が命。〟」

天使が口にしているのは、契約の呪文。とある魔術師が作り上げた、人間と霊現れいげん──悪魔や妖精や天使を、安全に繋ぐための仕組み。その魔術師は、人間が捨てさせられている魔力を、霊現が創造主の許しなく利用することに、異議を唱えた。霊現が人間の魔力を利用できるのであれば、人間が霊現の魔力を利用することも可能にするべきだ、と。その主張は、天界にも魔界にも棄却されず、構築された仕組みは、世界の法則となった。

「〝その身を委ねよ、背く者。我は服す、されども汝の名を耳に。〟」

ベリアルは、その魔術師と契約をした1体だった。この呪文についてもよく知っている。知っているがために、違和感を抱いた。契約の呪文にはいくつか種類があり、天使が唱えているそれは、描かれた図形の中に霊現を喚ぶものだ。しかし、その図形には既にベリアルが入っていた。天使が何をするつもりなのか、その答えは、呪文の終わりと共に訪れた。

「〝いまきっさきを、汝に預けん。名を、ミカエル。〟」

ベリアルは、自らの存在が2つに分かれていくのを感じた。誰もが認める──誰もが否定する──ベリアルと、誰にも認められない──自らも認めてはいけない──無名しの誰か。

「君のには感謝するよ。おかげで、こんな無茶が通るのだからね。」

悪魔は図形の外にいた。目の前には目障りな天使が、背後には囚われた堕天使が。悪魔は、あまりのに顔を顰めた。感情が清々しいほど素直に表情へと波及する。それは初めての感覚で、気恥ずかしささえ感じたが、囚われたままの半身を見れば、自然と嘲笑が溢れた。

「気分はどうだい?」

ミカエルを見れば、彼は心底楽しそうに笑っていた。悪を冠する堕天使ベリアルから抜き出された余分なもの名無しでは、大天使であり、契約の主となったミカエルに敵うはずもない。彼の機嫌を損ねれば、存在ごと消されてしまう。それをわかっていながら──いっそ楽かと思いながら──名無しの悪魔は、ミカエルに応えた。

「おかげさまで、最悪だ。」

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