第15話 冥府の慈悲
リバウルの山並みを望む森の外れに、小さな村があった。そこに一人の男が住んでいた。男は木こりを生業としていたが、ろくに働かず、村の若者と連れ立っては酒に溺れ、博打に興じることしばしばであった。村人たちは皆、呆れ果て、遠巻きにその暮らしぶりを見ていた。
男は、亡き父母の遺した身代のおかげで飢えることもなく、それを頼みに隣村の年頃の娘を娶り、やがて子も授かった。しかし、男の暮らしぶりは独り身の頃と変わらず、酒と博打に明け暮れた。ただ、我が子を慈しむ心だけは人一倍であった。
村人たちは、せめてその子のために働いたらどうかと諫めたが、男は耳を貸さなかった。妻はそんな男にも甲斐甲斐しく尽くしたが、子が三つの年を迎えた頃、病に倒れ、あっけなくこの世を去った。
妻の死に、男は深く嘆いた。そして、残された息子のために、ようやく働き始めた。最初は嫌々ながらであったが、働けども蓄えはできず、日々の糧を得るにも苦しんだ。ふと、思い至る。かつて父母も、妻も、このような苦しみに耐えながら、自分を支えてくれていたのだと。
孝を尽くせなかったこと、妻を労わることもできなかったことを、男は深く悔いた。自らの苦しみなど、報いとしてはなお軽い。そう信じ、男は黙々と働き続けた。
はじめは訝しんでいた村人たちも、やがて男の真摯な姿に心を動かされ、何かと手を差し伸べるようになった。男もまた、村のために尽くし、見返りを求めず人を助けた。そうして救われた者も多く、村人たちは感謝の念を抱くようになった。
子が五つになったある日、男が山に入っている間に、隣家から火の手が上がった。風に煽られ、火は男の家にも燃え移った。知らせを受けた男は、血の気を失い、急ぎ家へと駆け戻った。
火の勢いは激しく、すでに手の施しようもなかった。男は周囲の者に子の姿を問うたが、誰も見ていないという。男は桶の水を頭から浴びると、迷うことなく炎の渦巻く家の中へと飛び込んだ。
しばらくして、男は子を胸に抱き、焼け落ちる寸前の家から飛び出してきた。子にはまだ息があり、村の医師がすぐに手当てを施した。しかし、男の全身は焼けただれ、見るも無残な有様であった。
「息子は……無事か……」
男は息も絶え絶えに、ただそれだけを気にかけていた。医師が「命に別状はない」と、少しだけ言葉を選ぶように告げると、男は安堵の笑みを浮かべ、そのまま静かに息を引き取った。
*
気がつけば、男の前には威厳に満ちた門がそびえ立っていた。両脇には黒衣の影が静かに佇み、男を挟んで立っていた。二つの影に導かれ、男は門をくぐり、白き砂の敷かれた広き法廷へと進んだ。
「面を上げよ」
低く響く声に、男は顔を上げた。正面には冥府の判事が座し、その左右には公訴吏と弁護人が控えていた。
この冥府の法廷では、死者の魂は生前の行いを裁かれ、天国または地獄にて百年を過ごしたのち、再び現世に戻るとされている。百年の行き先は、その者の罪と功によって定められる。
公訴吏が立ち上がり、男の生前の罪状を読み上げた。親不孝、怠惰、博打、妻への不実、村人への迷惑――その数は多く、重かった。男は黙して聞き、読み上げが終わると、深く頭を垂れた。
「その通りでございます。孝に欠け、悌を軽んじ、礼を忘れ、仁を持たずして生きてまいりました。我が罪、果てしなく重うございます。」
判事は静かに頷き、「弁解せぬは殊勝なり」と述べたが、なお弁護人の言を聞かねばならぬと諭した。
弁護人は立ち上がり、声を張った。
「公訴吏の訴追内容について、被告人が認めている以上、反論はいたしませぬ。しかしながら、被告人の人生はそれのみではございませぬ。父母と妻を失った後、被告人は子のために忠を尽くし、信を保ち、村に尽くして多くの者を救いました。人は過ちを犯すものなれど、それを悔い、正道に立ち返ることもまた人の徳。罪のみを咎め、功を顧みぬは、義に悖るものと存じます。」
判事はしばし沈黙し、男に発言を促した。
男は静かに口を開いた。
「自分の行いで救われた者がいたのなら、それは望外の喜びにございます。しかし、それで我が罪が消えるとは思いませぬ。父母にも、妻にも、合わせる顔がございませぬ。自分が成したことで、ただ一つ誇れるのは、息子を火の中から救ったこと。それだけで、我が身には余りあるほどの誇りにございます」
男はそう言い終えると、再び深く頭を垂れた。
判事は目を閉じ、長く沈思黙考したのち、静かに言い渡した。
「被告人には、地獄にて百年の刑を科す。」
その場にいた者すべてが息を呑んだ。地獄百年の刑とは、主君殺しや親殺しに匹敵する大罪に科されるものである。公訴吏も弁護人も驚きを隠せなかったが、男は何も言わず、ただ深く頭を下げ、黒衣の廷吏に連れられて退廷していった。
弁護人は判事に詰め寄った。
「いかに罪があるとはいえ、後半生の功をもってしても、地獄百年とはあまりに重き裁き。いかなる理由あってのことか、ぜひお聞かせ願いたい。」
廷吏がその無礼を咎めようとしたが、判事は手を上げてそれを制し、静かに語った。
「小官も、あの者が子のため、村のために善を成したことは承知しておる。本来ならば、天国に行くべき者であった。あの者が唯一、誇りとした善行――それは、子を救ったことに他ならぬ。」
判事は一息置き、続けた。
「実はな。あの者が死んで間もなく、子も火傷のために亡くなり、今は天国におる。もし、あの者を天国に送れば、子が助からなかったことを知ることとなる。あの者が命を賭して成した唯一の誇り――子を救ったというその善行が、結果として叶わなかったと知れば、あの者はその事実に耐えられぬであろう。」
弁護人は息を呑み、公訴吏も眉をひそめた。
判事は静かに言葉を継いだ。
「それは、地獄の責め苦よりも深い痛みとなる。小官は、それを忍びないと考えた。ゆえに、子が現世に戻るまでの百年、あの者を地獄に送る他なかったのだ。子が天国にて安らかに過ごす間、父が地獄にあることを知ることもなく、父もまた誇りを胸に苦しみを耐え得る。これが、あの者にとって最も穏やかな裁きであると、小官は信じる。」
法廷は静まり返った。誰もがその裁きの重さと、その奥に秘められた慈悲に打たれていた。
弁護人は深く頭を垂れた。公訴吏もまた、静かに一礼した。
判事は席を立ち、白洲を後にした。その背に、誰も言葉をかける者はなかった。ただ、厳かに、深く、頭を下げるばかりであった。
そして、地獄の門の向こう、男は黙して歩みを進めていた。己が罪を背負い、ただ一つの誇りを胸に抱きながら。
百年の責め苦の果てに、再び現世に戻るその日、男は果たして何を思うのか――それは、誰にもわからぬ。
ただ、天国にて安らかに眠る子の夢に、父の姿が微かに映ることを、誰かが願っていた。
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