第13話 千里眼

嘉辰(かしん)は街はずれの古びた城門の傍で、沈みゆく夕日を眺めていた。

その目に映る光景は、もはや美を味わうものではなく、ただ虚ろだった。

胸の奥に渦巻くのは、悔恨でも怒りでもない。空虚だった。何も残っていないことへの、言葉にならぬ重さ。

長年の貧苦に耐えて得た富と田畑、そして、ようやく迎えた嫁。

身元の怪しい女だったが、その美貌に心を奪われた嘉辰は、友人の忠告を鼻で笑い、祝言を挙げた。

そのときの嘉辰は、幸福を手にした者の顔をしていた。

自分は選ばれたのだ。努力が報われたのだ。

そう信じて疑わなかった。

だが、幸福は幻だった。

女は金子とともに姿を消し、田畑の権利もいつの間にか町の有力者の手に渡っていた。

嘉辰はすべてを失った。

だが、それ以上に、信じていた自分自身の目が、何よりも信じられなくなった。

町の者は誰も嘉辰に同情しなかった。

かつて彼が見せた傲慢さが、今や孤独となって返ってきた。

友人の中には、心の奥で哀れみを抱く者もいたが、手を差し伸べる者はいなかった。

嘉辰は、誰にも語ることのできない思いを抱え、街はずれに佇んでいた。

そのとき、背後から声がした。

「若いの、どうしたのかね?」

振り向くと、白髪の小柄な老人が立っていた。

その顔には、どこか人ならぬ静けさがあった。

嘉辰は、話す相手を得た安堵からか、堰を切ったように身の上を語った。

そして、自分は見た目だけで人を判断する愚か者だったと嘆いた。

外見の美しさに惑わされ、心の醜さに気づけなかった。

もし叶うなら、人の本当の心を見る目が欲しい――そう願った。

老人は静かに問いかけた。

「内面の美醜が見えるようになれば、外見の美醜は見えなくなるが、それでも良いのかね?」

嘉辰は即座に答えた。

「当然です。見てくれなどに、何の価値がありましょう。」

その言葉には、失ったものへの怒りと、過去の自分への嫌悪が滲んでいた。

美しさに裏切られた嘉辰は、もはや美そのものを否定せずにはいられなかった。

老人は言った。

「それなら、お前に人の心が見える目を授けよう。夜が明ければ、内面の美醜が見えるようになっておろう。

そして、外見の美醜は見えなくなる。」

気がつくと、老人の姿は消えていた。

夜が明けると、嘉辰の世界は一変していた。

昨日まで華やかだった通りは、醜悪な者たちが歩く陰鬱な道に変わっていた。

赤子や童は輝いて見え、乞食に施しをする老人は、まるで聖人のような顔立ちだった。

嘉辰は、ようやく真実の世界を見たのだと感じた。

あの老人は仙人だったに違いない。

この目こそが、真の価値を見抜く力だ――そう信じた。

善良な人々と誠実に付き合い、生活は徐々に立ち直った。

そして市場で出会った一人の女性と結婚した。

嘉辰の目には、彼女は絶世の美女だった。

その美しさは、心の清らかさから来るものだった。

彼女は嘉辰に尽くし、嘉辰もまた、彼女に応えた。

「なんと、俺は幸せな男だろう。心を見る目を得たおかげで、良き妻を得、善男善女と付き合うことができている。」

だが、満ち足りた日々の中、ふと疑念が芽生えた。

――他の者には、俺の妻はどう見えているのだろう?

町を歩いても、誰も妻の美しさに気づかない。

誰も振り返らない。誰も羨ましがらない。

そのことが、嘉辰の心に小さな棘を刺した。

「自分だけがこの美しさを知っている」

かつて誇りだったその感覚は、やがて孤独に変わった。

――なるほど、きっと妻の“本当の外見”は十人並みなのだろう。

そう思うようになってから、嘉辰の心は静かに崩れ始めた。

妻の笑顔が、どこか“偽り”に見える。

町の醜悪な者たちがニヤニヤ笑うと、妻の容姿が嘲笑されているように感じる。

嘉辰の心は、再び「見た目」に囚われていった。

妻への態度は冷たくなり、ついに街中で問い詰められた。

「私はこんなにあなたに尽くしているのに、いったい私のことが嫌いになったのですか?」

その声は、かつて嘉辰が愛した“心の美”そのものだった。

だが、嘉辰の耳には届かなかった。

周囲のひそひそ話が、彼の耳を支配していた。

妻の声は、雑音に埋もれ、何も聞こえなくなった。

ただ、眉目秀麗な女が自分に詰め寄る姿だけが見えていた。

そして嘉辰は、妻の肩をつかみ、大声で怒鳴った。

「お前の本当の姿を見せろ!」

気がつくと、嘉辰は街はずれの城門の傍に佇んでいた。

周囲には誰もいない。

夕日は、もうすぐ山の向こうに沈もうとしていた。

その光は、嘉辰の目には、何の色も持たなかった。

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