第4話 行商人コールテル

コールテルという名の行商人が、とある街を初めて訪れた。

旅の疲れを感じながらも、彼の胸には小さな希望が灯っていた。

この街で商売を始めれば、ようやく生活が安定するかもしれない。

そう思うと、足取りは自然と軽くなった。

門番に恭しく挨拶すると、門番は笑みを浮かべて彼を通した。

その笑顔に、コールテルは心から安堵した。

「この街の人々は、なんと親切なのだろう」

そう思いながら、街一番の商会を探した。

市場近くの大通りで、親切そうな老人に声をかけると、老人は丁寧に商会の場所を教えてくれた。

コールテルは深々と頭を下げ、感謝の言葉を述べた。

その瞬間、彼は確かに幸福を感じていた。

人の善意に触れたときの、あの温かさを。

果たして、商会は教えられた通りの場所にあった。

コールテルは神に感謝し、この街での商談の成功を祈った。

「ここでなら、やり直せるかもしれない」

そんな思いが胸を満たしていた。

しかし、広間で待っていると、兵士を伴った街の役人が入ってきた。

その目は冷たく、広間を見渡すと番頭を呼びつけた。

何事かと他人事のように眺めていたコールテルだったが、手代が自分を指差した瞬間、空気が凍った。

「まさか、俺が?」

逃げる間もなく、兵士に腕を掴まれた。

その手の力強さに、現実がじわじわと迫ってきた。

代官所に連行され、牢に入れられた。

何の罪で捕らえられたのか、コールテルにはまったく心当たりがなかった。

「何かの間違いだ。誰かと取り違えたのだろう」

そう信じようとしたが、心の奥に不安が広がっていく。

取り調べでは、同心が怒声を浴びせた。

「自分の罪を認めないとは、なんと不届きな奴だ!」

鞭で打たれ、水に顔を沈められ、爪を剥がれ、骨を折られ、焼きごてを押し当てられても、コールテルは罪を白状しなかった。

いや、白状できる罪がなかった。

「俺は何もしていない。何もしていないのに、なぜこんな目に?」

彼は、旅の途中で飢えた親子に食糧を分けなかったこと、疫病の老人を避けたことなどを語った。

それは、後悔の記憶だった。

だが、それは「罪」と呼ぶにはあまりに些細で、肝心の「大罪」については何も語れなかった。

「俺は、誰かを傷つけたのか? 知らぬ間に、誰かの人生を壊したのか?」

裁判の日。

代弁人がつけられたが、彼はコールテルの訴えに呆れたように言った。

「自分の罪を自覚し、反省しなければ、情状酌量など望めない。被害者の気持ちを考えろ」

コールテルは、何の罪かも知らされないまま、代官の前に引き出された。

怯えながら周囲を見渡すと、そこに、あの親切だった老人の姿があった。

「なぜ、あなたがここに?」

裁判は、コールテルがいかに強情で、正義を嘲笑う悪漢であるかを代官所が訴え、代弁人は何も抗弁しなかった。

罪状は語られず、証拠も示されないまま、裁判は進んだ。

そして、あの老人が証人台に立った。

「この男は、恐ろしく、凶悪で、卑劣な者です。先日街に来たとき、私はこの目で見ました。あの男の邪悪さを」

コールテルは怒鳴った。

「何を証拠にそんなことを言うのか!」

老人は、代官に向かって叫んだ。

「ご覧ください!発言が許されてもいないのに、怒りに任せて怒鳴ったのです。これこそが、この男の本性です!」

聴衆はざわめき、老人に同調した。

「俺は、何をしたというのだ……」

与力が言った。

「お前が何もしていないというなら、なぜこの老人が訴えたのか。被害者を嘘つき呼ばわりするとは、何という奴だ」

コールテルは涙ながらに訴えた。

「違います、何かの間違いなんです。私は何もしていない。何を訴えられているのかすら知らないのです」

与力は冷然と告げた。

「先ほどは怒鳴り、今度は泣き落とし。何もしていない者が、こんな場に引き出されるものか」

コールテルはうな垂れた。

心の中で、何度も問い続けた。

「俺は、何を間違えた? 誰に、何をした? それとも、何もしていないことが罪なのか?」

そして、代官が判決を述べた。

「行商人コールテルの罪状は許し難い。よって縛り首による死罪とする。刑は直ちに執行する」

コールテルは刑吏に引きずられ、死刑台へと連れて行かれた。

縄が首にかけられ、台が蹴られた。

その瞬間、彼の心には、ただ一つの思いが浮かんでいた。

「この世界に、正しさはあるのか?」

聴衆は一斉に拍手喝采をあげた。

誰も、彼が何をしたのかを知らなかった。

そして、コールテル自身も、最後まで知らなかった。

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