第17話 解答

 幡野さんのオデッセイは夜の町を「やまと」に向かって走っていた。俺は助手席にすわって、左右に流れていくネオンを眺めていた。

 

 実さんの死は自殺だった。

 

 俺と話した翌日、ルディは実さんの遺書と自殺に使った包丁を携えて、警察に出頭した。

 遺書には、実さんが自分の自由意志で自ら命を絶つと決めたこと、ルディに死骸の後始末を頼んだが、手を下したのはあくまでも自分ひとりであることが、くどいほどに繰り返し書かれていた。ルディに迷惑をかけまいと、実さんが心を砕いたのが良くわかる。実さんは日本人だ。

 実さんには、自殺を隠すつもりは毛頭なかった。現場にあった遺書と包丁を持ち去ったのはルディの独断だ。ルディは実さんを自殺に追い込んだ敵に復讐するつもりだった。そのために遺書と包丁を隠し、実さんが殺されたように見せかけて、警察が敵を探し出すのを待った。だが、警察は見当違いの人間を拘留した。結果的に敵を見つけたのは俺で、しかも敵が敵でなかったことを知って、ルディは復讐をあきらめて出頭した。大した罪に問われなければいいと願っている。


 警察は「やまと」の封鎖を解き、俺と幡野さんはこれから、実さんが「やまと」に残した私物を取りに行く。実さんの弟さんは明日、LAに到着する。康子さんが、空港に迎えに行くことになっている。

「だがなあ、ヒロ君、俺はまだ釈然としないんだよ」

 運転しながら、幡野さんが言った。

「沢木が、仲良くしていたバスボーイに遺書を託したのはわかる。だが、なんでまた、よろいかぶとを着せてくれ、なんて頓狂なことを頼んだんだ?」

「俺も初めはわけがわかりませんでした。あっと思ったのは、ルディの左腕にあるタトゥーを見た時です」

「へえ。何のタトゥーなんだ?」

「二天一流」

「は?」

「崩し字で二天一流と彫ってあったんです」

「なんなんだ、それは?」

「二天一流は、剣豪宮本武蔵の創始した剣の流派です。それに気がつけば、全部がつながってきます」

 俺はネットで宮本武蔵を検索した。

 宮本武蔵は一五八四年、美作国宮本村に生まれている。

「咲枝さんの記憶は正確だったんです。実さんは、出身地を尋ねられて、美作、と答えた。ただ、美作は県じゃない、旧国名で、今の岡山県にあたります。実さんは少年時代、剣道をやっていました。出身地をわざわざ旧国名で答えるくらい、郷土の生んだ剣豪を尊敬していたんでしょう」

 宮本武蔵の生涯は、戦いの一生だった。


―われ若年の昔より六十余たびまで勝負すといえども、一度もその利を失わずー

 

 晩年の著書「五輪書」で、宮本武蔵は、負けたことがなかった、とその一生を回顧して書いている。

「宮本武蔵と言えば、必ず、対になって出てくる名前があります」

「佐々木小次郎」

 幡野さんが待っていたように答えた。

「それがコジロの正体です。実さんは、自分を武蔵になぞらえていました。男はおのれの信ずるところに従って戦うのだと、ルディに言っていたそうです。ルディは実さんから度々武蔵の話を聞いていたに違いありません。それで、実さんが『敵』と言った時、無意識に、武蔵の有名な敵の名前をあてはめたんだろうと思います。もしかしたら、実さんが自分で長井氏を佐々木小次郎になぞらえたのかもしれません。映画や小説の中の佐々木小次郎はたいてい、武蔵よりも世渡りがうまく、派手な男として描かれています」

「なるほどなあ」

 幡野さんは納得したようにうなずいた。

 

 宮本武蔵の生涯の夢は、功名手柄を立て、侍大将になり、やがては一国一城の主になることであった。天下分け目の関が原の戦いは、武蔵十七歳の時である。武蔵は西軍宇喜多勢に加わって戦った。だが、西軍は敗走した。その後、武蔵は長い武者修行の旅に出て戦いを続ける。だが、時代は武蔵に味方しなかった。世の中は太平に向かい、英雄豪傑が剣一本、槍一筋で身を立てられる時代ではなくなっていた。


―われ、六十余たびまで勝負すといえども、一度もその利を失わずー

 

 武蔵は強かった。強かったのに、彼の夢は実現しなかったのだ。

「晩年、武蔵は肥後細川家の客分として、二天一流を伝授しました。その地で、六十二歳で亡くなった時、遺言を残しています」


―死骸に甲冑を着せよー


「生きている間に侍大将になれなかった武蔵は、死んで初めて、侍大将のよろいかぶとを着て葬られた。実さんは武蔵の遺言を知っていたんだ。自分もまた、戦い続けて夢を果たすことなく力尽きた。せめて尊敬する武蔵と同じように、死骸に甲冑を着せてもらいたい。実さんを崇拝していたルディは、実さんの最後の願いを実現した」

 

 ルディは警察で、こう供述している。

 あの夜、実さんの自殺の覚悟をきいて、ルディは友人を数人連れて「やまと」に行った。実さんは先着して、タタミルームで遺書を書いていた。待つ間、友人たちは、よろいかぶとを着てチャンバラの真似事をする誘惑に抗しきれなかった。駐車場の清掃夫はそれを見たのだ。「やまと」のカーペットは、たいていのレストランがそうであるように赤い。刺されて倒れた振りをしたサムライの身体の下に醤油の染みでもあれば、血が流れたように見えただろう。やがて遺書を書き終えると、実さんはそれをルディに託して、一人で包丁を腹に突き立てた。

 介錯人のいない切腹で、実さんはさぞ苦しんだろう。だが、ルディたちは、一切が終わるまで手を出すなと厳命されていた。

 実さんがこと切れると、ルディは友人に手伝ってもらって、実さんの死体に甲冑を着せ、テーブルの上にすわらせた。遺書と包丁を現場に遺しておくはずだったが、ルディは持ち去ることにした。彼らは明かりを消し、障子を閉め、「やまと」の裏口に鍵をかけて立ち去った。


「思いもよらなかったよ、あの沢木がなあ」

 幡野さんは首を振った。

 たいした胆力です、と俺は言った。

「俺は実さんのアパートで、壁に張られた日本画を見ています。『枯木鳴鵙図』といって、武蔵が晩年に描いた有名な絵だそうです。鳥が一羽、枯れ枝にとまっている絵で、初めて見た時には随分淋しい絵だと思いました。でも、今は少し違います。モズは肉食の鳥ですからね。淋しいけれど一人で立つ強さ、闘志みたいなものが顕れている。武蔵の晩年の心境をモズに託したものだそうですが、あのモズは実さんでもあると、俺は思いました」


 実さんの使っていた包丁はきれいに洗われて、箱に入れて寿司カウンターにしまわれていた。ロッカーには大したものは入っていなかった。着替え、歯磨きのセット、タオル、石鹸、ヘアブラシ、スペイン語会話のテキストとテープ、腰に巻く補強ベルト。幡野さんは一つ一つ、丁寧に取り上げて、持ってきた紙袋に入れた。

「ところで、沢木の死んだタタミルームを見せてもらいたいんだが」

 幡野さんが言うと、黙って幡野さんのすることを見ていた森田氏はイヤな顔をした。

「なんでまた?」

「沢木の弟に聞かれたら、何か言ってやらにゃならんだろう? 自分で見ろ、とも言えないじゃないか」

 森田氏は、こっちだ、と言って店の表口に近い、障子で囲まれた一角に連れていった。

 障子を開け、明かりをつけると、すさまじい光景が目に飛び込んできた。咲枝さんが悲鳴をあげたのも無理はない。タタミの上に大量の血が流れた痕があり、さらに大きな物体を引きずったように血の痕が続いている。実さんが苦しんで血を流しながら這ったあとのように思えた。深緑の京壁、周りの障子、隣室との間を隔てるふすまにもどす黒い血が飛び散っている。障子の一つには、血にまみれた五本の指の痕がはっきりと付いていた。

 実さんが亡くなって十日以上になるのに、この部屋には、まだ、絶望と苦痛と血の匂いがこもっている。

「ひどいもんだな」

 幡野さんが低い声で言った。

 そうだろ、と森田氏が忌々しげに言った。

「タタミもふすまも障子も全部、取り替えなきゃ使い物にならない。壁も塗り替えなきゃな。まったく、えらい迷惑だよ」

「俺が言ったのは、そんなことじゃないよ、森田」

 幡野さんは冷ややかに言った。

「沢木が死んだこの部屋に、線香の一本、花の一輪も供えてないのはひどいじゃないか、と言ったんだ」

 森田氏はむっとしたようだった。

「なんで俺がそんなことしなきゃならない? 迷惑をこうむったのはこっちだ」

 幡野さんはいきなり森田氏の胸倉をつかんだ。

「よくもそんなこと……。沢木を殺したのはお前だろう!」

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