双極性障害と猫たちへの祈り

加福 博

第1話 大阪に生まれて

 まず、この作品を書くにあたってなるべく実名を使った。しかし、プライバシー保護のため一部、仮名に変更していることをご了承いただきたい。


 私は、1967(昭和42)年に大阪府枚方(ひらかた)市で生まれた。私の名前の読み方は、かふくひろしである。父方の先祖は、中国の福建省から来た海賊だと父から聞いている。


 そして、江戸初期に来日して今度は長崎で加福吉左衛門を始祖とする代々オランダ語の通訳・翻訳を行うオランダ通詞となった。一子相伝で続いたが、途中で養子が入っている。


 彼が、中国にルーツを持っているのかは分からないが、没後、再び加福の血筋が引き継いだ可能性はある。


 私の祖祖父は、大阪商船(現・商船三井)で働いた。そして私の祖父も父も関西電力で働いた。父は博覧強記で頭の回転が速かったが、瞬間湯沸かし器であり私にとっては怖い存在であった。


 また、加福家は、鄭成功と親戚の関係にある。


 鄭成功とは、17世紀の明朝の復興を目指し、オランダの支配下にあった台湾を解放して政権を樹立した軍人・政治家である。


 鄭家と加福家が、親戚の関係にあるのが分かったのは、父に日本の鄭家から連絡があったことによる。加福松(まつあるいはマツ)が鄭成功の弟の子孫に嫁いでいるということだった。


 母方の先祖は、松平藩の代々武士であった。祖祖父は法律家で、祖父は内科医であり、母はピアノの教師で気が強かった。


 こう書くと私は、さぞしっかりした子供と思われそうだが、それはとんでもない間違いで私には大問題があった。


 仙骨と背骨の腰椎がなく骨性化しており、椅子に座ると前かがみになり、胃が圧迫されて苦しい、今度は正しい姿勢を取ると尖った座骨が椅子に当たって痛い。


 もう、拷問である。これに耐えていたため脳をやられ、ボーとしており子供の頃からうつだったのだと思う。やはり、父方の先祖が海賊ということもあり、悪行の報いを私が受けたのだろう。


 ちなみに、私が生まれた1967年の第9回レコード大賞は、ジャッキー吉川とブルー・コメッツのブルー・シャトウであった。


 私が3歳の時、家族は大阪府の緑豊かな千里ニュータウンに引っ越した。1970年に開催された日本万国博覧会(大阪万博EXPO70)で、千里ニュータウンはまちびらきをしている。


 また、万博には今でも「芸術は爆発だ!」で有名な岡本太郎が制作した「太陽の塔」も建立している。


 引っ越した理由は父が結核を患ったのだが、枚方市の団地が最上階にあったため、あまりクーラーが効かず祖父がリタイアするために建てた平屋建ての家を譲ったからだった。


 千里ニュータウンは、イギリスのニュータウンをモデルにして都市計画が行われており、中心地区の千里中央駅は幼心にもまるでロンドンにいるように思えた。


 それは、母と観た映画でロンドンが舞台になっている小さなメロディも影響していると思う。3歳だった私は、母との会話を思い出す。


 幼稚園が始まる前日に、「お母さん、ぼく明日から幼稚園に行くの?」と聞くと、母は「そうよ、明日から幼稚園に行くのよ」と優しく答えた。その瞬間が、私の記憶に深く刻まれている。


 私たちの家族は郊外でなに不自由ない暮らしを送っていたが、大阪の都心では車の排気ガスで空気が充満し、伊丹国際空港では飛行機の騒音が問題になっていた。


 同時期、学生運動が激化し全共闘と新左翼が東京大学安田講堂を占拠した。


 また、作家の三島由紀夫が自衛隊の基地で日本の独立を訴え、クーデターをアジテートした後、割腹自決を遂げる事件もあった。


 三島は、醬油を大量に飲んで特攻隊の兵役を逃れたが、それを一生の恥とし武士に憧れがあったと言われているが、ひどく、精神的に追い詰められていたのは間違いない。

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