第3話:手を伸ばせないもの、そのいくつか。(三)

 更衣室での一件以来、山下に話しかけるきっかけを失ったまま、またたく間に季節は過ぎ。ふと淳也あつやが気付いたときには、暦はすでに盆の一歩手前へと差しかかっていた。じっとりと結露したグラスから、カランと氷のとける音が鳴る。


 夏休みだった。


 リビングの机には課題として配られた数学のプリントが広げられていた。応用問題に行き詰まり、気をそがれた淳也あつやは、ぼんやりとテレビの天気予報に意識を向ける。

 液晶のなかの気象予報士は、数日前に発生した大型台風の進路を神妙な面持ちで知らせていた。『最大限の警戒を』とのテロップが掲げられた画面内には、大きな予報円に覆われた日本列島が映しだされている。淳也あつやが住んでいる町も、もれなく円の内側に入っていた。むしろ直撃と表現しても差し支えない位置取りだ。けはなした窓から吹きこむ生ぬるい風が、時折ガタガタと網戸を揺らす。湿度のこもったその風は、強い土埃の匂いがした。

 雨粒がひとすじ、ポツリと窓に跡をつけた。台風の気配はもう、すぐそばに迫っていた。

 ──────その日の深夜、淳也あつやの暮らす町は台風の直撃による記録的な暴風雨に見舞われた。家の外壁に叩きつける風雨の音に混じって、緊急車両のサイレンが遠く切れ切れと鳴っている。夜の底に、ぼんやりとした不安が溜まっていくような、奇妙な閉塞感があった。

 とこいてからもうずいぶんと時間は経っているはずだが、一向に眠れない。夜通しのはげしい雨音に浮き足だち完全に目が冴えてしまった淳也は、浅くため息をついた。肩まで寄せていた掛け布団をわきへよけ、窓の方へと歩いていく。窓辺に近づくと、外の嵐の気配がより鮮明になっていった。淳也は窓へと手を伸ばし、カーテン、窓ガラス、網戸と、にも隔てられたその最後に、雨戸をそっと開けた。

 次の瞬間、息も詰まるほどの風と雨の匂いが顔に吹きつける。吹きこんだ風にあおられ、真横で垂れていたカーテンがいきおいよく膨れあがった。慌てて布地のはしを掴むと、頭上でたわんだカーテンレールは、カシャンとせわしげな音を立てた。

 淳也あつやは急いで窓を閉めた。しんと静かになった部屋で、アバラの内側を叩く心臓の音だけが鼓膜を揺らしている。一瞬のうちに閉め出されたの嵐の感触は、けれども鮮烈そのもので、まるで開けてはならない箱を開けてしまったかのようなバツの悪さを淳也あつやに突きつけた。

 ベッドに戻り、掛け布団にくるまってもなお響く心音を、淳也あつやはいつまでも聞き続けた。

 ◇

 淳也あつやの自宅近辺の被害は、幸いなことに道路の一時的な冠水程度にとどまった。しかし、地区によっては床上浸水や家屋の損壊、停電なども見受けられるようだった。

 あ、これ中学校がっこうのすぐそばだ。

 台風一過の澄んだ朝日が射しこむリビングで、淳也は地方局版のニュース番組をぼんやりと見ていた。自家製のママレードが塗られたトーストを口に運ぶと、こんがりと焼けた生地から、軽やかな音と湯気が立ちのぼる。流しを片付け終えた母親は、食卓に腰を落ち着けるなり淳也を見咎めた。

「なあに、淳也。そんなボーッとして」

 淹れっぱなしになっていたコーヒーを飲みながら、母親はマグカップのふちごしに淳也へと尋ねる。

「……昨日、雨がすごくて。ちょっと寝つけなかっただけ。なんでもない」

 なんの気もなしにこぼした淳也の言葉を、母親は耳ざとく聞きつけた。ほっそりとした、それでいて有無を言わさぬ力のこもった母の手が、淳也の両頬を挟みつける。

「やだちょっと淳也、カオ見してみなさい。アナタもしかして熱ある?」

 淳也は己のうかつさにしまったとほぞを噛んだ。眠れない、食欲ない、は母への禁句だ。愛情の裏返しだという自覚はあるが、それらの言葉をひとたび口にしたときに母が見せる張り詰めた表情が、ずっと息苦しかった。一方で、母を疎ましく思う自分自身がどうしようもなく後ろめたい。最近は、さらに輪をかけて。

「あーもう、いーって。かーさん。だいじょうぶだよ」

 母の手を押しのけ、淳也はイヤイヤと首を振った。子どもっぽい仕草で意思表示をした方が、母に言葉が届くことをいつからか覚えてしまっている。

「でも、」

「三十六度! もう測った、平熱だよ!」

 わかりやすく片頬をふくらませると、母は心配を顔に浮かべながらもどこか満足げに、「そうなの?」と手を離した。

 ならいいけど、と小言をおさめた母は、ほどなく関心をテレビのニュースに移したようだった。母の視線につられ、淳也も画面に目を向けた先で──────────

 心臓が、激しく脈を打った。

 朝のニュース番組の、社会情勢を取り上げるコーナー。そこでインタビューに答える男性の言葉テロップに、釘づけになる。

“両親にはずっと言えませんでした”

 その言葉はまさに、

「この人、女の人が好きになれないなんだって」

 無言でテレビを見つめていた淳也に気がついた母親が、淳也にもわかるように横から噛みくだいてをはさんだ。淳也はギクリとして母の顔を見る。母親の表情には、悪意のカケラもなかった。

「……可哀想ねぇ」

 息をするように当たり前に、さもそれが善意のように。母はテレビの向こうで語る男に哀れみの言葉を投げていた。

 淳也はふぅん、と無関心をよそおって相槌をうった。いつかの更衣室で聞いた扇風機の音が、キィ、と淳也の頭の中で軋んだ。


 僕は、病気なのか。

 可哀想なのか。


 母が何気なく放った言葉は、他人事のていを示しているからこそ、淳也の心を深く抉った。ありえないものとして扱われる痛みが、ジクジクと傷口を膿ませていく。

 両親だけじゃない。誰にも言えない。言えるはずがない。

 味のしなくなった朝食を、のろのろと口に押しこむ。いつしかトーストは冷め、固くなったミミが唇の端に小さなすり傷をつけていた。

 オレンジジュースを口に含むと、すった傷がひどく痛んだ。舌に残る苦味を、淳也はいつまでも飲みこめないでいた。

 そうして中学一年生の夏が終わるころ。

 新学期初日、九月の朝の教室で、淳也は山下の転校を知った。

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スノードームと菓子ブーツ 玉門三典 @tamakado-minori

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