第3話:手を伸ばせないもの、そのいくつか。(三)
更衣室での一件以来、山下に話しかけるきっかけを失ったまま、またたく間に季節は過ぎ。ふと
夏休みだった。
リビングの机には課題として配られた数学のプリントが広げられていた。応用問題に行き詰まり、気をそがれた
液晶のなかの気象予報士は、数日前に発生した大型台風の進路を神妙な面持ちで知らせていた。『最大限の警戒を』とのテロップが掲げられた画面内には、大きな予報円に覆われた日本列島が映しだされている。
雨粒がひとすじ、ポツリと窓に跡をつけた。台風の気配はもう、すぐそばに迫っていた。
──────その日の深夜、
次の瞬間、息も詰まるほどの風と雨の匂いが顔に吹きつける。吹きこんだ風にあおられ、真横で垂れていたカーテンがいきおいよく膨れあがった。慌てて布地の
ベッドに戻り、掛け布団にくるまってもなお響く心音を、
◇
あ、これ
台風一過の澄んだ朝日が射しこむリビングで、淳也は地方局版のニュース番組をぼんやりと見ていた。自家製のママレードが塗られたトーストを口に運ぶと、こんがりと焼けた生地から、軽やかな音と湯気が立ちのぼる。流しを片付け終えた母親は、食卓に腰を落ち着けるなり淳也を見咎めた。
「なあに、淳也。そんなボーッとして」
淹れっぱなしになっていたコーヒーを飲みながら、母親はマグカップのふちごしに淳也へと尋ねる。
「……昨日、雨がすごくて。ちょっと寝つけなかっただけ。なんでもない」
なんの気もなしにこぼした淳也の言葉を、母親は耳ざとく聞きつけた。ほっそりとした、それでいて有無を言わさぬ力のこもった母の手が、淳也の両頬を挟みつける。
「やだちょっと淳也、
淳也は己のうかつさにしまったと
「あーもう、いーって。かーさん。だいじょうぶだよ」
母の手を押しのけ、淳也はイヤイヤと首を振った。子どもっぽい仕草で意思表示をした方が、母に言葉が届くことをいつからか覚えてしまっている。
「でも、」
「三十六度! もう測った、平熱だよ!」
わかりやすく片頬をふくらませると、母は心配を顔に浮かべながらもどこか満足げに、「そうなの?」と手を離した。
ならいいけど、と小言をおさめた母は、ほどなく関心をテレビのニュースに移したようだった。母の視線につられ、淳也も画面に目を向けた先で──────────
心臓が、激しく脈を打った。
朝のニュース番組の、社会情勢を取り上げるコーナー。そこでインタビューに答える男性の
“両親にはずっと言えませんでした”
その言葉はまさに、
「この人、女の人が好きになれない病気なんだって」
無言でテレビを見つめていた淳也に気がついた母親が、淳也にもわかるように横から噛みくだいて説明をはさんだ。淳也はギクリとして母の顔を見る。母親の表情には、悪意のカケラもなかった。
「……可哀想ねぇ」
息をするように当たり前に、さもそれが善意のように。母はテレビの向こうで語る男に哀れみの言葉を投げていた。
淳也はふぅん、と無関心を
僕は、病気なのか。
可哀想なのか。
母が何気なく放った言葉は、他人事の
両親だけじゃない。誰にも言えない。言えるはずがない。
味のしなくなった朝食を、のろのろと口に押しこむ。いつしかトーストは冷め、固くなったミミが唇の端に小さなすり傷をつけていた。
オレンジジュースを口に含むと、すった傷がひどく痛んだ。舌に残る苦味を、淳也はいつまでも飲みこめないでいた。
そうして中学一年生の夏が終わるころ。
新学期初日、九月の朝の教室で、淳也は山下の転校を知った。
スノードームと菓子ブーツ 玉門三典 @tamakado-minori
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。スノードームと菓子ブーツの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます