第25話中編 蜂蜜は飲み物です 備考:藤村の名言集!

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「先生、この前の話、お役に立ちましたか?」


 お市について思案していた芳子は、専門家に聞いた方が早いと思い、新設された心理学部の学生にそれとわからないよう相談を持ちかけていた。正確には、相談というよりは一方的に問いかけたというべきだろう。

 藤村が影からアシストしたことで、芳子のイメージが水面下で回復し始めた出来事でもある。当事者である女学生も、前のように物怖じすることなく話しかけてくる回数が多くなった。


「大丈夫です。とても参考になりましたよ」

「良かったです。ところで、その...あの質問をされた事情は、聞いてもいいのでしょうか?」


 すぐさま返答しようと口を開きかけたところで、またもや視界にぴょんぴょんと飛び回る不審者が映った。やたらと手をこちらに向かって振っている。

 前にはなかったのに、一時代前にやっていたテレビ放送、出演者に指示を出す時に使われていたらしいカンペのようなものすら持ち出してきた。

 画用紙には、大きく太字のマジックで「申し訳ないですが」と書いてある。よく見ると、その字の下に小さく「返事する前につける!!」と書いてあるのが見えた。

 奇行を繰り返す不審者・藤村は、痺れを切らしたように黒のマジックでカンペを叩き始めた。


「はぁ...。あ、申し訳ないのですが、それは出来かねます」


 若干棒読みになったのはご愛嬌だろう。一言いって不審者の方に視線を戻すと、更に指示が出ていた。

 先程のページを一つめくって出てきたのは、「本当にごめんなさいね、相談に乗ってもらったのに。本当に感謝してるのよ」といった文章だった。不審者はカンペを持っていない方の手を腰に当てて満足げな顔をしている。


「ほ、本当にごめんなさいね、相談に乗ってもらったのに。本当に感謝してるのよ」


 先程のような明らかな棒読みではなかったが、少しぎこちなさが感じられた。

 しかし、当の学生はそんなことは気にならないようで、キラキラした目で芳子を凝視していた。


「そっ、そんなそんな、大丈夫です! そんなふうにいっていただけて、大変恐縮です! あっ、あの、来年から一般教養がなくて。それで、その、先生のゼミに入りたくて、ですね...。入ってもよろしいでしょうか?」

「貴女は、心理学部では?」

「そうなんですけど、その、ダブルを使えたらなーと。でも、あの、工学部のゼミは両立できないから歓迎はされないだろうって進路の先生に聞いて。あの、一生懸命やります! 高校は理系選択でしたし、物理の成績はいい方でした。動機は、ちょっと不純なんですけど...先生に憧れてるんです! 両立はやってみないとわからないですけど、どうか許可していただけませんか?」


 学生は「お願いします!」ともげるのではないかという勢いで頭を下げた。

 ダブルとは正式名称"double education"で、志望学部を最大二つ選択できるというものだ。ただし、二つとも過程が卒業までいかないとペナルティーとしてとった単位・学位を剥奪されたり、四年制学部なら四年で卒業しなければならないなど、厳しいルールが存在する。故に、あまり使っている学生は居らず、大学内の会議でも、よくダブルの規則緩和が話題に挙げられるほどだった。

 だが、実際わざわざ二つの大学に通う必要はなくなるわけで、スケジュール調整もきくため、画期的であることに違いはないのだ。とっても大変なだけで。

 また、ダブルを選択する条件の一つに、入る学部・ゼミの教授に許可を取ることが明記されている。その為の学生の行動であった。

 芳子は、特にその申し出を受けて断るような面倒な事をする気はなく、受け入れるつもりであった。他の学部の教授ならば、大変だから辞めておきなさいとたしなめるものだが、芳子にそんな優しさは備わっていない。


「べつに...」


 芳子が口を開いたところで、先ほどより距離を詰めてきた藤村が目に入った。メリーさんの如く先程から着々と距離を縮めている藤村は、講義室の学生の席に隠れてカンペだけをこちらに見せている。

 「勝手にすればいいんじゃない? フンッ!」と黒のインクが切れたのか青いマジックで書かれている。直後、藤村はカンペをまた一枚めくった。そこには「ツンデレ風に!」と書かれて、マジックでピシピシと叩いて示している。

 芳子は珍しくもその顔面に笑みを乗せた。しかし、目が全く笑っておらず、顔は明らかに藤村の方向を向いている。


「どうするかは貴女の勝手です。やりたいというのなら、私が止める必要はありませんね」


 学生は顔を赤らめて可愛らしく破顔した。しかし、幸福オーラは当の学生のみで、着いてきた二人の学生は芳子の黒い笑みに身震いしていた。空気が読めないというのは、一種の才能である。


「あ、では、これからもよろしくお願いします!!」


 学生はまたも首がもげそうな勢いで頭を下げ、白いレースのスカートを揺らして講義室を出て行った。

 学生が全員出た事を確認して、芳子は深く長くため息をついた。


「講師、何していらっしゃるのですか?」


 芳子が声をかけると、藤村が学生席のしたから三列目、カンペが顔を出していたところから姿を現した。講義室はオペラハウスの観客席のようになっていて、教師のいる壇上との高低差はかなりあるのだ。藤村はコツコツとゆっくりした歩調で、満面の笑みをたたえて段差を降りてくる。


「いやー、先生。いいじゃないですか、いい雰囲気ですよこれ」


 藤村は心底嬉しそうに喋り始めた。


「貴方が指示したのでしょう」

「それはそうですけど、実行したのは他ならぬ先生ですよ。カンペだって、冗談半分に出してたんですから」

「別に、あの学生にかける言葉にこだわりがあるわけでもなかったので。考えるのも面倒でしたし。ちょうど良かったというだけなのですが」

「はいはい。いいんですよ〜照れ隠ししなくても。分かってますから」


 藤村は親指を上にあげ、白い歯を見せてにっこりと笑った。


「はあ。まあ、それでいいです。訂正するのも骨が折れそうなので」

「そうですね、人間諦めが肝心です。この調子でどんどん"林又教授は怖くないよ! 〜林又教授と仲良くなろう〜"計画を遂行していきます」

「...なんですか、その巫山戯ふざけた計画は」

「ふっふっふっ〜、それはナイショです♡」


 藤村は意味深な顔で声を弾ませる。これ以上聞いても喋らないとふんで、芳子は別の疑問を投げかける。


「それで、あの"ツンデレ風に"というのは何ですか?」

「それはー、"林又教授は怖くないよ!〜林又教授となか...」

「それはいいので、指示の意図を聞いています」

「意図、ですか? 意図は、特には無いですよ」

「は?」

「いや、だって遊び心に抗えなくてですね、つい。そういう時ってあるじゃないですか」

「無いですが」

「有るんです!」


 藤村は頬を膨らませて上目遣いに芳子の方を見る。


「理解できません。貴方は、どうやら不思議にも私のイメージ回復を目論んでいるようですが、ならば、貴方の先程の行動は逆効果ではないですか?」


 藤村はこてんと首を傾げる。しばらくして合点があったようで、「あ〜」と無声音のように口を開けている。


「人間、誰しも複雑な思いを抱えてるんです。一筋縄じゃいきませんよ。矛盾なんてままある事です」

「面倒ですね」


 藤村は不思議そうな顔で芳子を見つめる。ついで、にっと口角を上げた。


「だから、人間は面白いんですよ」


 芳子は機材を片付けながら、藤村の話を聞いていた。想定通りの答えに、思わず嘆息する。


「やはり、理解できません」

「単純な話ですよ。人間がただただ幸福であったら、それはとてもつまらないじゃないですか。それに、その場合、それは本当に"幸福"といっていいのかということになります。人間はないものねだりな生き物なんです。もし、戦時中を生きている人がいきなりここに来たら、とてつもない幸福感を得るでしょう。しかし、その人もしばらくすればこの状況に慣れてくる。そうしたら、その人はまた、それ以上の幸福を求めて、現状を幸福とは思えなくなるでしょう」

「マズローの欲求階層説ですか」

「正に」

「しかし、それが感情をシンプルにしない事と何の関係が?」

「人間は、何のために生き何のために死ぬんでしょう?」

「それは、人によるのでは?」

「そうですが、先生の場合はどうですか?」

「私は、知識を得るためです。死ぬのは、そうですね、次代のためですかね」

「はい。私も前はそうでしたけど、最近それに夫と子どもが加わりました」

「何が言いたいのですか?」

「人生には、彩が必要なんです。鉛筆画は、確かにそれだけでも美しい。しかし、それに絶妙に色が混ざると、より作品は美しく人を惹きつけるものとなります。感情は、絵の具なんです。その人の人生を彩る大切なアイテムなんです。単色だったキャンバスに、苦難や幸福や妬み嫉みなんかでどんどん色が重なっていき、何とも言えない色彩美ができるんです。人が生きる意味って、一つの絵をカラフルにする事だと思うんです」


 その時、いつも明るく陽気なだけの藤村に影が見える。しかし、その影は藤村の笑顔をより印象的に映し出した。


「それに、大ヒットする小説にそんなのないですよ。主人公が終始幸せで、幸せなまま終わる物語なんて。悲しみか喜びかハッキリしてる心情描写なんて、全く面白くないです! 人間は読む小説が自己を投影するって言いますけど、結局のところ、複雑でありたいんですよ。どんなに苦しい中にも暖かさがあったり、順風満帆な中に孤独や翳りがあったり。そういう面倒くさいことを、避けたいと言いながらもどうしようもなく求めてしまうのが、人間っていう生き物なんですよ...たぶん」


 藤村が最後に自身なさげに言い添えたところで、芳子は思わず吹き出した。


「先ほどまで堂々としていたのに、ふふ、あの威勢はどこに行ったのですか?」

「いいじゃないですか! ふと我に返って、何私こんなポエミーな小っ恥ずかしい事をって反省してたんです。もう!」


 藤村は講義室から逃げるように退散して行った。


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