第3話 黒色缶コーヒー

 五時になると、体育祭実行委員の呼びかけによって美術室にいた生徒たちが体育館へとかり出された。どうやら体育祭で使う来客用のパイプ椅子を運ぶらしい。


 私も途中まで付いて行ったが、廊下の途中で先生に引き留められた。そこまでしてもらうわけにはいかないですという謙遜に後押しされ、私は後ろに付いてきていたやつと一緒に美術室へと戻った。


「意外、茉莉まつりが自分から手伝おうとするなんて」


 書き途中のパネルをそっと撫でて、そいつが言う。白組はシロクマを描いているらしい。デフォルメチックなデザインだが、白以外の色もふんだんに使われていて、一目見ただけでそれが『作品』なのだと分かる。


「まぁ……大変そうだったし」


 澄玲たちは結局タコを描くことにしたようだった。すでに構図が決まって色まで塗っている白組と比べると、赤組の進捗は遅い。


澄玲すみれちゃん、良い子だよね。わたしがここに呼ばれたとき、一番先に声をかけてくれたのがあの子だったんだよ。組は違うのに『絵上手いんですか!?』って目をキラキラさせて話しかけてきてさ。高校生ってみんな大人びてるから、ちょっと意外だった」


 良い意味でも悪い意味でも。そう付け加えたそうな口ぶりだった。


 私とそいつと、二人きり。絵の具の香りが混ざったこの空間は、粘ついたものを思い出させる。カリカリに乾ききった絵の具を、爪でひっかくようだった。


「付き合ってるんだ?」


 後頭部に銃口を突きつけられる。


 顔をあげると、そいつは笑っていた。


「澄玲ちゃんから聞いた。今、好きな人と一緒に棲んでて、その人も絵を描けるから今度呼んでくるって。最近の高校生って、だいぶませてるんだね」

「ヤバいか」

「まぁ、ヤバいかも。高校生ってこと分かってながら、一緒に棲むって。倫理的にじゃなくて、社会的にね」


 すんません……と小さくつぶやくと、そいつは美術室の窓を閉めた。心地のよかった風が塞き止められる。


「澄玲ちゃんいっつも同棲してる人の話を聞かせてくれるんだけどね、あ、本当に好きなんだろうなって思ったよ。だから大人のいらないお節介はいらないかなーって思ってたんだけど。……まさかその相手が、茉莉だったなんてね」


 部屋の空気が停滞する。


「大人には、いらないお節介言っていいよね?」

「大人じゃないです」

「ズルイよそれは」


 ずる賢い自覚はなかった。都合がいい人間である自覚はあったけど。


「すぐ別れそう」


 半笑いの声は、停滞した空気のように私の周りをゆっくりと漂った。


「前に喫茶店で会ったときから、同棲してたの?」

「同棲はしてた。去年の秋ぐらいに事情があって引き取って、それから……」

「それから、恋人同士になったの?」


 どうして咎められるような形になっているのか。心当たりばかりが石ころのように足元に転がっている。


「まあ、高校生ってそういう恋愛好きだから否定はしないけどさ。衝動的な恋って長続きしないよ」


 廊下から学生の声が聞こえてきた。男女がキャイキャイと、色恋沙汰で盛り上がっている。


「特に同棲ってさあ、最初は楽しいけどだんだんとしんどくなるよ。それこそ半年くらいで。お互いの価値観の違いとか生活リズムの違いとかで亀裂が生まれてね」 


 しんどかったのなんて、思えば最初からだった。自分の部屋に誰かがいるという状況に、私はなかなか慣れなかった。


「あと、同棲を解消するときの引っ越し作業。あれほど虚無いものはないね。もう好きでもない人と一緒にいる時間って、ほんっとうに地獄だからね」


 当事者のような物言いに首を突っ込みそうになって、やめた。藪を突いて蛇と戯れるのは私の悪い癖だった。


「茉莉も大変だね、勝手に好きになられちゃって。茉莉ってなんでこんな同性にモテるんだろう。まぁ、気持ちは分かるけどさ。それはさておき、女子高生の淡い恋を、今だけでも支えてあげるっていうのは良いことだとは思うけど、残酷でもあるよね」


 線香花火のように、澄玲の顔が脳裏で弾けた。明滅するそれらは、果たして消え行く灯火なのか。


「なんか喉渇いたね。体育館の近くに自動販売機あるから一緒に行かない?」


 伸びをしたそいつの背中を追うと、冷たい風が鎖骨付近を通り抜けていく。


「冷たいのでいいよね」


 一瞬、皮肉かと思った。いや、実際そうなのかもしれない。こいつの言う冷めてるとは、そういう際の常套句だった。


 首に押し当てられた冷気は、頭の中に溜まった泥水を凍らせていくようだった。


「全然話してくれないじゃん。さっきから喋ってるの、わたしだけ」

「せやな」


 いきなり関西に引っ越した私には目もくれず、そいつは自分で買った缶コーヒーをその場で開けて飲んだ。


「茉莉、まだあの花屋で働いてるんだね。茉莉の描いた絵、見たよ。駅前でわたしももらったんだ。もらったっていうか、押しつけられた。なんか、赤いヤンキーみたいな人に」

「うちのもんがすんません」

「いいんだけどね。久しぶりに茉莉の絵、見られたから。コーヒー、飲まないの?」


 そもそも、私は喉が渇いたなど一言も言っていない。奢ってくれとも言っていない。それでも受け取るのは恩であり、背負うのは貸しであり……人間同士の心温まるコミュニケーションの渦に巻き込まれる。


 プルタブを開けて、一気飲みする。微糖の甘さが、稚拙な栄養分を脳に送ってくれる。


「茉莉の絵、なんか変わったね。すごく、綺麗っていうか、温かい。素敵な絵だって思った」

「どうも」

「茉莉の素敵な絵、わたしはすっごく嫌いかな」

「上げて落とすじゃん」

「なんか、埋もれちゃったみたいで」


 そいつが廊下の窓を開ける。窓開けるの好きだなこいつ。


「ポイ捨てしていいかな」

「なんでわざわざ、ゴミ箱あるのに」

「昔の茉莉なら、してたかなって。なんか、そういう集団とつるんでたときあったよね」


 そいつは窓を開け放ったまま、空き缶をゴミ箱に投げた。


 それから体育館脇から見えるグラウンドのトラックに視線を移す。


「パネル、茉莉は描くの手伝う?」

「どうだろう」

「わたしはあんまり手伝わないつもり。アドバイスはするけど、やっぱり自分で描いて欲しいし、絵を描く楽しさを知る機会になったらいいなって思ってる。勝ったら絵を描くの好きになってくれるかもしれないし、負けたら悔しさをバネにしてほしい。だからなるべく、ね」

「とてもいい志だと思います」

「最近そういう、憧れとか夢の原初って大切だなって思うようになったんだ。絵の仕事についたからかな」


 私の一歩前を歩くそいつは、背中の後ろに手を組んだまま言う。


「茉莉、全然わたしのこと聞いてくれない」


 下駄箱を通り過ぎて、生徒玄関を駆け抜けていく生徒を目で追った。


「今、プロのイラストレーターになったんだよ。絵で、仕事をしてるの」


 聞かずとも自分で言ってくれるのだから、手間が省けて助かる。


 人の近況なんて心の底からどうでもよくて、誰がどこで何をしていようが私の人生には欠片も関係ないなんて口にしてしまえば大人たちから白い目を向けられること必至だ。つまり、私は笑顔で「○○ちゃんは今なにしてるの~?」と聞かなければならなかった。


 笑顔を作る労力とこいつの名前を知らないことを考えると、それが億劫で仕方が無かった。


「そうなんだ、すごーい」

「思ってないくせに」


 自分で言ったくせに。


「茉莉、これ」


 そいつが一枚の紙を渡してくる。うちの職場で扱っているチラシと同じようなサイズだった。


「体育祭同日、市内の美術館でコンペが開かれるの。参加資格はプロアマ問わない。作品の形式は平面絵画ならなんでもいい。応募作品はブースで展示されるし、入賞した作品は年度末まで国立美術館で展示される」

「へー」

「期日までちょっとしかないから、もしかしたら間に合わないかもしれないけど、応募は当日ギリギリまでやってるから。どう?」

「どうって、一緒に見に行くってこと?」


 そいつは首を横に振る。


「勝負しよう、わたしと」

「えー……」

「お願い、茉莉」

「いやぁ、勝負っていうか、私の負けでいいよ。勝負するまでもないだろうし」


 両手を挙げて降参の意を示す。


「いまだに人間、描けないし」


 人間の骨格も、仕組みも、仕草も、理解しようとしたことなんか一度もなかった。


「たぶん、そういうのが欠損してるんだよね」


 後天的なものとは思えなかった。たぶん、それは、おそらく。


「生まれつき、感性が死んでる」


 だから競争心のようなものが芽生えない。


 自分と他人の間にできる溝の大きさに頓着できない。


「心肺機能が低いのに全力疾走しろって言ってるようなものだよ、それは」


 カラカラと、髑髏が鳴くように笑ってみせた。


 目が合ったそいつは、唇を噛みながら、私にコンペのチラシを押しつけた。ついでに、殴られた、ような気がする。


 どうして私がコンペに出ないだけでこいつが怒るのかがわからない。わからないけど、なんとなく言っておいたほうがいい気がした。


「なんかごめん」


 夢の残滓が舞い上がって、夕陽に照らされる。砂埃のようなそれに紛れたそいつの鋭い目つきに、私はどう答えればいいか分からなかった。


「いいよ、知ってたから。茉莉は絵も、人も、好きになんかならないもんね」


 そいつは大きなため息を吐いて、腰に手を当て呆れたように言う。


「同棲、解消したら教えてね」


 体育館の方からザワザワと声が聞こえてきた。パイプ椅子を運び終えたのだろう。学生たちが出入り口から吐き出されるように排出していた。


 そんな人混みの中で、ぴょこんと跳ねた人影が一つ。


「あれ、まつり!」


 澄玲がこちらまで走ってくる。


「どうしたの? すみれに会いに来る途中だった? そんなに会いたかった?」

「そうそう、会いたくて震えてた」


 開口一番、謙虚の欠片もない自己肯定感にぶん殴られる。肩をバイブレーションみたいに震わすと、澄玲はくしくしと白い歯を見せた。


「ごめんね澄玲ちゃん。わたしが茉莉を借りてたの」


 そいつが澄玲と目を合わすように屈む。


「ううん! どうぞどうぞ! まつりなんかいくらでも使ってくれていいので」

「おい」

「あははっ、仲良いんだね」


 そいつの笑う声は、まるで本当に心の底から湧き出た純粋な喜びかのようで、本物と全く遜色ない。出来の良い贋作を見ているかのようだった。


「今日はもう終わり! 後片付けして一緒に帰ろ!」


 澄玲が私の背中に乗ろうとしてくる。


 大型犬を背負えるほど、私も屈強ではない。前のめりになりながら澄玲の膝を抱えて、廊下をよろよろと歩く。


 そんな様子を、そいつは笑いながら眺めていた。   

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