第2話 名前も知らないそいつ
「え? 体育祭のパネルを描くのに絵を描ける人がいないから私に手伝いに来てほしい? 大丈夫他の組の子も絵を描ける従姉妹のお姉さんを連れてきて協力してもらってるからって? 体育祭は学生間だけじゃなくて外部との交流目的もあるから学校側も推奨してるって?」
「すっごい理解はやいね!?」
金曜日の夜、食卓を挟みながらそんな会話があった。
「明日の午前中みんなで体育祭の準備するんだ。まつりも来てね」
「警備員さん呼ばれたらどうすんのさ」
「だから学校側が許可してるから大丈夫なんだってば。それ用の受付も体育祭の期間は用意されるから、そこで名札もらってね」
『強力な助っ人を呼ぼう!』というタイトルの学校新聞をひらひらと見せてくる
「すみれは赤組なんだけどね、白組の杉本ちゃんはパネル係の助っ人にプロのイラストレーターさん呼んだんだって。これはいい勝負になりそうだね」
「プロが介入してる時点で負け濃厚だと思うんだけど」
「でもこっちにはまつりがいるから。クラスのみんなに言ったら絶対連れてきて! って言ってたよ。あの、最近絵を配ってるお花屋さんの絵を描いてる人だよーって言ったらみんな驚いてた」
トマトを箸で串刺しにしながら、澄玲が語る。
「まつり、頼んだぜ!」
「まぁ、見てあげるくらいならいいけど……」
「えー! 描いてよ! 白組はもうほとんどプロの人に描いてもらってるよ!」
「それいいの? 絶対自分たちで描いたほうがいいと思うんだけど……」
「え、なんで?」
「そりゃ、思い出とか……」
輪郭だけの言葉がゴトっと落ちる。固いくせに、軽い。作り物の石みたいだった。
「まあその辺はみんなと相談するよ。だから明日来てね」
「えー……」
「きーてーねー」
「えーえーえー……」
「やったー」
なんか勝手に決まってた。
こういう頼みは、時間が経てば経つほど断りづらくなる。
「でも、店のイラストもあるから。時間あんまり取れないよ」
「あ、そっか。まつり、春ぐらいから毎日描いてるもんね。あれ、何枚くらい描いてるの?」
「まぁ、一日十枚くらいは」
「ってことは、春から二ヶ月経ってるからー……四千枚!?」
「計算下手か。六百枚くらいしか描いてないよ」
「それでもすごいんじゃないの?」
「別に。小さい頃はもっと描いてたし。その頃に比べたらサボりもサボり」
「そっかぁ」
机にしがみついていたわけでもないし、描いた枚数を積み上げようとしたわけではない。クレヨンを握りしめて絵を描いていたあの頃は、ただ夢中になっていた。ママの笑った顔を想像しながら、無心で画用紙と向き合っていた。
学校で五十枚、家に帰ってから三十枚。そんなのざらだった。
使い終わったスケッチブックは廊下からクローゼットに使ってる物置まで山のように積まれていて、ママはそれをなにより自慢していた。こんなにたくさん描けて、すごいわねって、きっと私の輝かしい未来を信じて疑わなかった。
あの頃に比べたら、筆のスピードはだいぶ落ちている。
「すみれも負けてないけどね、小さい頃からずっと走ってたもん。走れなくても、歩いたし、ちゃんと」
なぜか対抗してくる澄玲。
皿の上に最後の唐揚げが載っていたので、箸を伸ばす。するとトンビのような影が現れて一瞬でかっさらわれた。
ほっぺたをパンパンにした澄玲が、もごもごと口を動かす。
「明日お願いね」
「……へーい」
この高校に来るのは二度目だった。
一度目は、澄玲を引き取ってすぐのことだった。保護者名義が変わったことによる手続きが必要で、渋々澄玲を引き連れてやってきたのだ。
あのときの澄玲は、ずぶ濡れの捨て犬のようだった。全く喋らなかったし、いつも部屋の隅で膝を抱えていた。私を見ると肩をビクッと震わせて、何か言いたげにこちらをジッと見るくせに、目が合うとすぐに視線を逸らす。
あれからもうすぐで一年が経つ。今では人の唐揚げを横からぶんどるくらいにはすくすくと成長している。背も少しだけ伸びた。これからグングンと伸びて、追い越されたらどうしよう。
小型犬なら手懐けられるが、大型犬はさすがに手に負えない。
「それでは来客用の名札をお渡ししますね。帰る際はそちらのケースに返却してください」
「あ、りがとうございます」
凜然とした大人に、ぎこちない敬語で返す。
職員玄関の来客用下駄箱に靴を入れて、スリッパを履く。男子生徒三人組が大笑いしながら廊下を走っていく。奥の体育館からはバスケットボールが弾む音が聞こえてくる。向かいにある校舎の開いた窓からはトランペットの音が鳴り響いていた。去年聞いたときより、上手くなっていた。
校舎内の地図を確認して、美術室を目指す。
「あ、まつり!」
美術室は一階にあった。入り口から顔を出していた澄玲が私に気付いて駆け寄ってくる。
走るたびにスカートが揺れ、首元のリボンが跳ねた。昔の自分と重なって、胸がキュッとなる。
懐かしいという響きは、喜怒哀楽には含まれない、稀有な感情だ。
「ちょうどこれから始めるところなんだ! はやくはやく!」
澄玲に手を引かれる。すれ違った学生が、何事かと私を見る。私も学生の立場だったら、怪訝に思うだろう。
美術室に放り込まれるように入ると、パネルを前にうーんと唸っている学生が二人ほどいた。私に気付くと、高校生とは思えないほど礼儀正しいお辞儀で挨拶をされる。
「すみません、無理を言ってしまって」
お団子頭の子が申し訳なさそうに頭を下げる。続いて、隣のメガネをかけた子も同じように頭を下げた。
「なに描くの?」
元々、子供は苦手だ。というよりも、年下が苦手だった。扱い方が分からない。年下の子はみんな私を敬うように見てくるけど、私はそんな視線を向けられるような人間じゃないから、負い目のようなものを背負うはめになる。何か悪いことをしている気になって、目も合わせられなかった。
「お題は赤いものならなんでもいいんだ。まつり、なんか描きやすいのある?」
「んー、赤ならタコとか」
「えー! 体育祭っぽくない!」
「じゃあ、血」
「怖いよ!」
「祭りっぽいでしょ?」
「血祭り!?」
「絵の具も節約できるじゃんやったぜ」
「もう、もっと真面目に考えてよー!」
ピー、と沸騰したやかんみたいに騒ぐ澄玲と私の問答を見て、他の二人がクスクスと笑った。
「
メガネの子が顔を綻ばせながら私を見る。苦手な、視線だった。
「ま、まぁ」
「私あの絵、すごく好きなんです。なんだか儚くて、でも綺麗で……そんな人に助っ人に来てもらって、すごく嬉しいです!」
その賛美に、どう返せばいいか分からない。
隣で澄玲が自分のことのように鼻を伸ばしていたので、とりあえず前に差し出しておいた。
「え、茉莉!?」
そんなときだった。
私たちが作業しているのは美術室の入り口側。その反対側で作業していた人のうち一人が、立ち上がって私の名前を呼んだ。
そいつは制服を着ておらず、私と同じ来客用の名札を首に提げていた。
「あれ、杉本お姉ちゃん、まつりのこと知ってるの?」
澄玲がキョトンと、小首を傾げる。
一瞬も、視線を逸らせなかった。
開かれた瞳孔に含まれる、その淀んだ光は何を意味するのだろう。
一歩、また一歩と近づいてくる。
私の前までやってきたそいつと、無言の睨み合いが続く。この異様な空気に、さすがの澄玲も何かを感じ取ったようで、そんな私たちを観察するように見比べていた。
先に口を開いたのはそいつだった。
「うん、そうなの。昔からの友達で」
その大人びた愛想笑いを見ると、いつか喫茶店で飲んだコーヒーの味を思い出す。
マグカップに浮かぶ黒い水面は、いつだって苦味を連れてくる。
「ね、茉莉」
や、厄介なことになった……。
「お、おー、アイアム、ベストフレンド」
「なにそれ」
名前も知らないそいつがクスクスと笑う。
「えー! まつりって友達いたの!? 全然そういう話聞かないからぼっちだと思ってた!」
「おい」
私の胸中など知りもせずケラケラと笑っていた澄玲の首元を、むんずと掴む。
「茉莉も、描きに来たんだ」
「……成り行きで」
何故か嬉しそうに言うそいつに、不承不承に答える。
窓の向こうから聞こえてくるトランペットが、ププッ、とまた一つ、音を外した。
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