5章
第27話
目覚まし時計の音で目を覚ました紗雪は、ゆっくりと身体を起こした。辺り一面が真っ暗で何も見えない。一瞬、視界を奪われたような錯覚に紗雪は陥った。それでも暫くすると周囲の環境に目が慣れてきて、自分の部屋にいるのだと認識できた。
紗雪はゆっくりと立ち上がると、カーテンを開けた。月の光が部屋に差し込み、薄らと部屋が明るくなる。その僅かな明かりを頼りに、紗雪は身支度を始めた。
学校に行けなくなってからの一週間。紗雪はずっと家にいたわけではなかった。何度も学校に向かおうと、いつも通りの時間に家を出ようとした。だけど学校に辿り着くことができなかった。玄関口で靴を履いた瞬間、視界がぼやけ始め、家を出て暫く歩くと視界が暗転する。その繰り返しから、抜け出すことができずにいた。
それでも紗雪は諦めたくなかった。中学生の頃、一度諦めてしまったことがあったから。同じような状況に陥るのは二回目。だから今度こそ、絶対にどうにかしてみせる。
そんな紗雪が思いついたのは、夜の学校に行くことだった。学校に誰もいないことがわかっている状況なら、行くことができるかもしれない。だから紗雪は夜に起床したのだった。
制服に着替えた紗雪は息を吐いて、自分の部屋を後にした。
今日は絶対に登校する。その気持ちが紗雪の中で高まっていた。
玄関口に着いた紗雪は靴を履いた。一週間前はこの時点で視界がぼやけていた。しかし今日は視界がぼやけていない。ほっとした気持ちを胸に、紗雪は家を後にして最寄り駅へと歩を進める。いつもと違う街の雰囲気が、紗雪に新鮮さを覚えさせた。普段は太陽が昇っている時に通る道。だけど今日は太陽の代わりに月が昇っている。制服を着て歩いているせいもあるのかもしれない。これから夜の学校に登校するという自分の行為に背徳感を覚えた。だけどそれが功を奏したのかもしれない。視界が暗転することなく、紗雪は駅までたどり着くことができた。
電車に乗ってからも紗雪の身に特別大きな変化はなかった。席に座って窓の外に見える月を眺めていると、あっという間に学校の最寄り駅に到着した。電車を降り、改札を抜けた紗雪は学校までの道を歩いていく。
全てが順調だった。時間帯を変えただけで、ここまで上手くいくとは紗雪自身思っていなかった。このまま行くことができれば、また学校に通えるようになるかもしれない。そんな淡い気持ちを抱きつつ、紗雪は歩を進めていった。
暫く歩くと右手に夏月の家と太一の家が見えてきた。数週間前まで、毎朝家まで太一を迎えに行った。その事実がとても懐かしく感じた。
でも、そんな日々を送ることはもうできない。太一とはもう話すことすらできないのだ。自分の目的を果たす為に太一を利用した。そんな身勝手な自分の行為を、太一が許してくれるはずがない。
太一のことを意識した瞬間、胸が苦しくなった。その苦しみから逃れるように、紗雪は太一の家の前を早足で通りすぎる。今は学校に通うことを考えようと気持ちを切り替えた。
学校に誰もいないという安心感は、紗雪の目標を達成するには十分だった。視野がぼやけたり吐き気に襲われたりすることなく、紗雪は無事に学校に辿り着けた。紗雪は迷わず空き教室に向かう。紗雪と太一以外の人が入ることができない場所。まずはこの場所で気持ちの整理をつけようと思った。
空き教室に着いた紗雪は鍵を開けて中へと入る。カーテンが開いていたお蔭で、街灯の光や月の光が真っ暗な室内を微かに照らしていた。紗雪の視界に二脚の机と椅子が入る。数週間前と変わらない光景に、紗雪はほっと息を吐いた。
ドアを閉め、鍵をかけた紗雪はいつも自分が座っていた席に腰を下ろす。そして微かに見える掛け時計に視線を向けた。時刻は九時を過ぎたばかり。施錠担当の先生が見回りを終える時間になっていた。紗雪は机に突っ伏してゆっくりと目を閉じた。頬にひんやりとした感触が広がり、徐々に緊張がほぐれていく。
こうして学校に来ることができた。だから教室に行っても普通に過ごせるはず。
紗雪は身体を起こして腰を上げた。そして空き教室を後にする。
夜の廊下は本当に神秘的な空間に思えた。窓から微かに差し込む月明かりが、紗雪を教室まで導いてくれる。まるで月に守られているのではないかと、紗雪自身錯覚するほどだった。
連絡通路を抜け、ようやく紗雪は教室前に着いた。ドアに手をかけた紗雪は、深呼吸をする。
「大丈夫。大丈夫」
何度もおまじないのように呟いた紗雪は、ゆっくりと教室のドアを開けた。
――私のお父さん、森川雅樹って名前なんだ。
突然、有香の言葉が紗雪の脳内でリフレインした。聞こえないはずの有香の肉声が聞こえ、紗雪の視界は徐々にぼやけ始める。
負けたくない。負けたくない。
頭を抱えながらも、紗雪は何とか教室に足を踏み入れた。しかし有香の声が徐々に大きく聞こえ始め、紗雪の脳を何度も震わせる。そしてその声に交じるように微かに別の声が聞こえた。
――人殺し。
聞き覚えのある声を耳にした瞬間、紗雪の限界は直ぐにやってきた。急いで教室を離れてトイレに駆け込んだ。そして耐え切れなくなったものを一気に吐き出す。
有香の声に交じって聞こえたのは、かつて親友だった久美の声だった。
「どうして……」
紗雪の頬を涙が伝う。自らの不甲斐なさに、紗雪は嗚咽を漏らすしかなかった。
結局、紗雪は弱いままだった。どんなに諦めずに頑張っても変えられないものはある。紗雪は結局、過去に囚われたままなのだ。
新しい環境で過ごしてきて、少しは変われたと思っていた。しかしその全ては偽りにすぎなかった。だから今、こうして過去の出来事に屈服している。
ふと紗雪の脳裏に母の顔がよぎる。母は苦しんだ結果、自ら死を選んだ。どうして死んでしまったのか。紗雪はずっと考えていた。そしてその原因は父のせいだと思っていた。
だけどそれは間違いだったのかもしれない。
紗雪は母が死を選んだ本当の理由がわかったきがした。今自分が思っている感情が、刑務所にいた母の気持ちと同じだとしたら。
紗雪はトイレを離れると、淡々と廊下を歩いた。連絡通路を抜け、階段を上り、空き教室のある五階へと向かう。しかし紗雪の目指す場所は空き教室ではなかった。そのまま空き教室の前を通り過ぎ、突き当りにある階段を上っていく。そして上った先にあったドアの前で紗雪は足を止めた。
目の前のドアノブには鎖が巻かれていた。ドアの上半分はすりガラスになっており、微かに光が漏れている。紗雪は無心で鎖をどかし、ドアノブを自由にした。そしてドアノブに手をかけ、そのまま回す。
微かに音を立て、ゆっくりとドアが開いた。
冷たい風が紗雪の頬をくすぐる。目の前にはコンクリートの床が一面に広がっていた。
堀風高校の屋上に紗雪は足を踏み入れる。ゆっくりと歩いていき、転落防止の為に備え付けられた柵の前までやってきた。ちょうど紗雪の腰までの高さがある柵に背中を預ける。
改めて紗雪は目の前に広がる真っ暗な世界を見つめた。遠くのビルの明かりが少し眩しく感じるだけで、紗雪の周辺は漆黒の闇に閉ざされている。夜の屋上はこんなにも暗い場所だったなんて紗雪は知らなかった。
暫く真っ暗な空間を見続けた紗雪は、ふと太一のことを思い出した。太一はこの場所で柊に告白をして、付き合うことになった。教室に帰ってきた太一は、本当に嬉しそうな表情をしていたのを紗雪は知っている。でも、太一の笑顔を平気な顔して壊したのは自分だった。
太一のことを考えると胸が苦しくなった。もし太一に干渉していなかったら、太一は柊と幸せな関係を築いていたのかもしれない。
覚悟はしていた。だけどあまりにも重い罪悪感が紗雪にのしかかってくる。
紗雪はふと空を見上げた。散りばめられた星々が煌びやかに輝いている。
以前紗雪は本で見たことがあった。今輝いている星は、死に向かっているのだと。こうして人の目に届く時には、一生を終えている星もあるらしい。
「超新星爆発……」
どうして自分は生きているのだろうか。どうして星は死ぬとわかっていても輝きを放つのだろうか。科学的根拠を調べれば、直ぐに答えは出るのかもしれない。
だけど今の紗雪には、科学なんてどうでもよかった。
今はただ空に輝く星のように、精一杯自分の生きた証を残したい。
母が紗雪に託したように。誰かの記憶に残ってくれる存在になれれば。
紗雪は夜が明けるまで、輝き続ける星々を目に焼きつけた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます