6章 青い惑星 - 4
「…………うぷぅっ」
目的地に到着するや、僕は
「……こんなときでもなんのな。何のお約束なんだ?」
「……冗談に、付き合う余裕は、ない、うっ」
「ああ、待て待て! 絶対吐くなよ。ヘルメットのなかで窒息死するぞ」
僕はトムが騒ぐのを横耳に、込み上げたものをなんとか胃の奥まで押し込める。余計に気分が悪くなったが、窒息するよりはいくらかましだった。
本当ならば休憩したいところだが、そんな猶予はない。保安局もまだ僕らの目的に気づいてはいないだろうが、じきに追跡部隊を手配して追ってくるだろう。万が一、僕らの目論見が成就すればそれは火星入植以来、前代未聞の大犯罪になる。あらゆる手を使って、阻止しようとしてくるに違いない。
僕は呼吸だけ整えて立ち上がる。トムも猶予がないことは分かっているからそれ以上は何も言わず、
ワンフーから渡された小銃は最後尾で追跡を警戒する僕が持つことになった。当然だが小銃を片手で撃てるはずもないので完全に見掛け倒しだ。
右腕に抱えられた重みを感じながら、互いに死を向け合った保安官のことを思い出す。彼の怪我が無事に治療されていることを祈った。
ほとんど壁に近い急勾配を、微妙な凹凸を足掛かりにしながら下っていく。トムは慣れたもので滑らかに下りていく。片腕の僕は、情けないことにセッテに支えられながらトムの後を追う。
やがて急勾配は終わり、トムがたった独りで作ったロケットの元へと辿り着く。
セッテはそれが何なのか理解が及ばないらしく、五〇メートルの威容を呆然と見上げていた。
「このロケットにお前らを乗せて、地球まで飛ばす」
トムがにやりと口角を吊り上げ、それから肩を竦めた。
「……と言いてえところだが、たぶん燃料が足りねえな。おまけにいきなり大気圏外からこんなもんが飛来してきたら、地球が大騒ぎになる。最悪の場合、撃ち落とされかねない。そもそも素人のナナオにスペースシャトルの着地なんて芸当ができるはずもねえ。いくらAIが優秀だとしてもな。だから目指すのは軌道エレベーター上の宇宙ステーションになる」
僕は頷き、よく意味が分かっていないだろうセッテもそれに倣って頷く。トムはまさか即興の思いつきで決めた作戦だとは思えないほど流暢に説明しながら、地面に僕から受け取った小銃の先でロケット発射から宇宙ステーション到着までの図を描いていく。NASAのロケット開発に携わるような人間が並外れて優秀なのは言うまでもないが、トムはそれに輪をかけて優れているのではないかと僕は思った。
「もちろん宇宙ステーションに突っ込んだら大惨事だ。だから脱出ポットを使う。脱出のタイミングはAIが算出してオートメーションでやってくれるから、予定軌道から逸れなけりゃ問題ない」
「もし予定軌道から逸れたら?」
「サポートはあるが、基本的に半分は手動で修正することになる」
「できるかな……」
「やるしかない」
「わかった」
僕は自分に言い聞かせる意味も込めて、語気を強めた。ここまできて四の五の駄々をこねている場合ではない。
「よし。準備に取り掛かるぞ。早速だが乗り込んでくれ」
僕とセッテはトムの指示に従ってスペースシャトルへと乗り込む。セッテのサポートで長い梯子を上ってハッチに向かう。中へ入るとすぐ堅固な隔壁で遮られていて、トムの操作で開いた隔壁の向こう側はすぐ階段になっている。直進すれば寝泊まりのできる簡易的なミッドデッキ。階段の上がフライトデッキだ。
フライトデッキ内には縦に座席が二つ並んでいて、周囲は初めて見る機材に取り囲まれている。かなり手狭なので多少の身動きも周囲の機材に気を遣う必要がありそうだった。
『動力をオンにしてくれ』
機材のどこからか、トムの声が聞こえた。僕が機材を見回し、見つけたレバーを引く。ガコン、というレトロな音とともに各種機材に明かりが灯り、シャトル全体が静かな震動を始めた。
「すごい。よく分からないけど、すごいことは分かる。……こんなものが人一人で造れるなんて信じられない」
『なに、天才なんだよ、俺は』
「ああ、本当に。君は天才だよ」
『褒めても何も出ねえぜ。早く座ってくれ』
トムは通信の向こうで照れ臭さに頭を掻いていた。
メインの操縦席である前に僕が座り、後ろの補助操縦席にはセッテが座る。僕らはトムの指示に合わせて各種機材のチェックを行っていく。トムの指示が的確だったことと、思いの外セッテの呑み込みが早かったこともあり、フライトデッキからできる操作は滞りなく終了した。
僕らは手持ち無沙汰になり、フライトデッキ内には沈黙が落ちる。機材の駆動音や何かの電子音が規則正しく響いていた。
「いよいよですね」
僕はふと溢してみる。後ろは振り返らなかった。
「ここまでついて来てくれて、ありがとうございます」
素直な気持ちだった。これはセッテの願いを叶える逃避行であると同時に、僕が僕自身の矮小を受け入れ、カレン・ウノという才能が目指したものを知るための時間だった。少なくとも僕は、小さく卑屈だったあの頃より、人に対して前向きになれた気がする。
セッテと出会い、罪を吐露し、僕は僕自身に向き合えた。そしてセッテを通して、僕が背けた背中がたくさんの他人の手で支えられていたことを知った。それも全て、あの娼館の〝7番〟部屋のあの出会いから始まった。
「ナナオ、違います」
やがてセッテの声が返ってくる。響いたのは予想していなかった否定の言葉。
再び沈黙が間を埋める。
「ここまで連れてきてくれて、ありがとうございます」
ゆっくりと放たれた言葉は、僕の心を大きく揺さぶる。
「ナナオは、とても不思議な人でした」
幾度となく向けられてきた言葉に、僕は静かに耳を傾ける。
「ナナオはいつも、とても苦しそうで、哀しそうな顔をしていました。何かに迷いながら、何かに怯えていました。それでもナナオは私のところへ来てくれました。約束を果たそうとしてくれました。こんなに怪我をしながら。不思議でした。弱いのに、怖いのに、何がナナオをそうさせるのかが、不思議でした」
セッテの言葉があまりに的を射ていたので僕は笑うしかなかった。だがこうも直球で指摘されると自分でも不思議に思えてくる。確かに僕は困難に直面するたびに怖気づき、怯え続けてきた。だが事実として、僕はそれでも進んできた。それは一体、何故だろうか。
「私、考えました。ナナオはきっと、愛が欲しかったのではないかと、私は考えました」
「……愛、ですか」
初めて会ったとき、セッテに僕がカレンを愛していたと言われて否定したのを思い出す。
「はい。愛とは、何でしょうか」
「何だろう。随分と哲学的ですね」
「愛はきっと、誰かと何かを共有したいと思う気持ちの総称だと、私は結論づけました」
「誰かと何かを共有したいと思う気持ち」
僕は繰り返す。その声に、いつか聞いた、だけどどれだけの時間を経ても褪せることのないカレンの声が重なった気がした。
不意に、涙が流れた。頬を伝ったそれはヘルメットのなかに落ちて水滴をつくる。
行く手を阻む分厚い霧が光に裂かれて晴れるように。あるいは卵の殻を突き破り、雛鳥が広い世界へ産声を叫ぶように。
僕のなかで一つの理解が生まれる。波が押し寄せて、それから引いていくように、哀しみが止めどなく僕の胸から溢れていた。
関係性こそ人の本質だと、かつてカレンは言っていた。その根底には共感したい欲求、共感されたい欲求があると。
僕はカレンを愛していたのだ。彼女に分かって欲しかった。僕と同じように理解されない孤独に立つ彼女なら、僕らは理解し合えると思ったのだ。そしてカレンも僕に対し、そう思ってくれていた。あらゆる人類に対して向けるのと同じだけの愛を、僕へ向けてくれていた。だが彼女は眩しすぎ、僕は彼女に背を向けた。
その意味で、僕らの決別は必然だったのかもしれない。犯した罪が赦されることはない。だけど僕が理解されないのは当然だった。カレンを理解しようとしていなかったのだから。
「僕は、とっくに、愛されていたじゃないか」
かつて地球で、カレンは僕を理解しようとしてくれた。
この火星で、トムやワンフーは僕の無茶に応えようと手を差し伸べてくれた。
僕はとっくに、たくさんの愛を受け取っていたのだ。
孤独などではなかった。
今日まで何一つ気づけなかったのは、向き合おうとしなかったから。怯えて拒み、理解しようとしてこなかったから。
「……はは。僕は、大馬鹿じゃないか」
涙が溢れる。押し寄せるのは哀しみだけではない。蝋燭の明かりのように儚く、だが温かい柔らかな感情が溢れた。
僕らは誰かと何かを分かち合うために生きている。
その力学的・心理的な指向性を、僕らは愛と呼んでいるのだ。
「セッテさん」
僕はゆっくりと振り返る。後ろの座席に座るセッテは、僕を真っ直ぐに見つめている。
かつてセッテは涙を流した。想像しえない地球に思いを馳せ、そして挫けて涙を流した。きっともうあのときから、僕はセッテを愛していた。セッテと青く美しい地球の景色を、共に見たいと思ったのだ。
「僕は、あなたのことを愛しています」
セッテの無垢な瞳から一筋、涙が溢れる。その涙の意味を、問う必要はなかった。
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