5章 奪還 - 4

 僕はセッテを座らせ、医療用のメスでうなじの人工皮膚に切れ目を入れる。指を突っ込んで剥がせば、接続端子が露わになる。僕はそこに専用のラップトップから伸びるケーブルを赤、白、緑、青、黄色の順に差し込んでいく。ラップトップ上にアプリケーションが立ち上がり、セッテの人工神経網の異常をオートメーションで走査していく。電磁パルスによるショートがあるかと思ったが、セッテの身体は意外なほど綺麗なままだった。


「人工神経に大きな問題なし、と」


 続いて人工脳の走査が開始される。始まるや無数のアラートがポップアップした。

 一瞬、今ある設備では直せない最悪の状態―――脳神経の損傷が過ぎったが杞憂だった。どうやら電磁パルスによるショートを避けるために首から下の神経系との接続を切り離して一時凍結を施したらしい。


「……つくづく優秀なドールですね、セッテさんは」


 僕は動かないセッテの横顔に言って、深く息を吐く。

 一時凍結は電磁パルスから人工脳を守るには最も有効な手段だと言える。ドールの頭骨には高度な電磁防壁の施された特殊素材がミルフィーユ構造で埋め込まれているので首から下との接続さえ切り離してしまえば影響を最小限に抑えることができる。

 だがセッテの機転がそのまま、この状況を好転させるわけではない。

 本来ならば人工脳の凍結解除は大規模に連結されたPCとデリケートな技術を要する作業だ。だがそんなものがヒートライドの簡易設備のなかに整えられているわけもない。つまり僕は、何もかもが足りないこの場で、セッテの人工脳の凍結を解除しなければならない。

 万が一失敗すれば、セッテは再起動されない。あるいは運よく再起動されたとしても、元の疑似人格に不具合をきたしている可能性もある。

 衝撃音とともに車体が大きく揺れた。僕は勢い余って吹き飛び、ラップトップを抱えている手前手を突くこともできずに顔面から床にダイブする。だが今更取り乱すような痛みでもない。僕は迸る鼻血を抑えながら、ハッチから落ちて床に引っくり返っているトムを揺する。


「何が起きたんだ?」

「奴ら、とんでもねえ! 検問所抜けた途端、大砲かましてきやがったっ!」


 眩暈がした。保安局としては、何としても僕らの逃亡を阻止する腹積もりらしい。


「ワンさん! 左後ろから煙が出てる! なんかやばいくらい黒い!」

「早くブリッジに入れ! そうすれば奴らもデカいのは打てなくなる!」


 怒号と指示が飛び交う。加速したヒートライドがガタガタと不安定に揺れる。

 これから僕らが渡るブリッジはドームとドームの間に真っ直ぐ、およそ五キロ続く一本道だ。その最大の特徴は、何と言ってもドームの構築するネルガリウム膜に覆われていないことだろう。つまり万が一、三重構造になっている外壁を破壊してしまえば、極寒の空気が勢いよく流れ込み、ドームを行き来する唯一の通路であるブリッジそのものを放棄せざるを得なくなってしまう。そうなればストライキの期間に関わらず、ドーム間の流通は崩壊する。

 いくら僕らが捕らえるべき無法者であっても、保安局はそんなリスクを負ってこないだろう。

 小窓から差し込む明かりが一瞬だけ暗転。すぐに青白い光に変わる。

 ほとんど同時に銃声が止んだ。ワンフーたちが息を吐く。ブリッジに入ったのだ。

 もちろん予断は許さない状況なのは変わりない。今もヒートライドのすぐ後ろにはホバーパトがぴたりと追随しているはずだ。

 僕は両の頬を平手で打った。まずは目の前の為すべきを為す。状況を打開する糸口があるとすれば、それはセッテの再起動の成功に他ならないのだ。

 僕は再びラップトップに向き直る。画面上、無数に開かれた膨大な文字列に、意識を沈めていく。周囲の音も、匂いも、色も、急速に褪せていくような感覚に落ちていく。


【中枢制御機構の疑似ニューロン凍結解除/脳の有機的モデルの反映/再構成/接続――――――】

【記憶素子の疑似ニューロン及び個別データ各種凍結解除/有機的モデルの反映/再構成/接続――――――】

【身体制御機構の疑似ニューロン凍結解除/反映/再構成/接続――――――】

【理性モデリングの疑似ニューロン凍結解除/反映/再構成/接続――――――】

【空間把握機構の疑似ニューロン凍結解除/反映/再構成/接続――――――】

【凍結解除/反映/再構成/接続――――――】

【凍結解除/反映/再構成/接続――――――】

【解除/解除/反映/反映/再構成/再構成/接続/接続――――――】

【解除/解除/反映/反映/再構成/再構成/接続/接続――――――】

【解除/解除/反映/反映/再構成/再構成/接続/接続――――――】

【解除/解除/反映/反映/再構成/再構成/接続/接続――――――】

【解除/解除/反映/反映/再構成/再構成/接続/接続――――――】


 はたと手が止まる。文字の羅列が眼球の表面を滑っていく。

 五年以上のブランクがあるとはいえ、僕はドールの研究者だ。ドールの人工脳をゼロから設定したことだって一度や二度ではない。いくら技術が進歩して各種モジュールの小型が果たされていたとしても、ほとんどは僕の持つ知識や技術からの類推でカバーすることができる。

 ただ唯一、カレン・ウノが原型を作った感情表現モジュールを除いて。

 それは僕が辿り着けなかったものだった。単なる理論としてではない。かつての僕が、人間から目を背けることで、自ら辿り着く道筋を閉ざしたのだ。

 僕に完璧なドールなど作れるはずがなかった。他者との理解を拒絶した僕が心を生み出せるはずがなかった。

 僕の人生は間違いだらけだ。

 他者を拒絶したことも。研究に費やした長い時間も。カレンにしてしまった過ちも。後先を考えずにセッテを連れ出したことも。全て。全部が間違いだらけで、あまりに惨めで不完全だ。

 思い出すだけで吐き気のする人生だ。できることならやり直したいと思うし、きっと僕のような人間はいないほうが世界のためだったのかもしれないとさえ考えられる。

 だけどきっと何一つとして無駄ではなかった。

 積み上げた膨大な過ちの上で、僕は手を伸ばしている。きっとたくさんの感情や、命さえも踏み躙って、そして踏みしめて、今の僕がある。

 僕は画面上の文字列を指でなぞった。

 この意味不明なデータの羅列がセッテの心だ。

 僕は今、心の底からセッテの気持ちを知りたいと願っている。

 キーボードの上を、指が躍る。画面から溢れ出す文字列が、僕の指へ、手へ、腕へと絡みつき、血肉となるよう身体の奥へと沈みこんでいく。


【凍結解除―――】―――二日前の夜、娼館の〝7番〟部屋で初めて会ったセッテは、ひどく困惑した様子だった。表情が乏しくても分かる。セッテからすれば、僕はさぞかし変な客だったのだろう。思えば一目見たあの瞬間から、僕のなかで何かが変わり始めていたのかもしれない。


【反映―――】―――セッテは僕に、泣いているのかと聞いた。僕は否定した。でもセッテは正しかったのだろう。僕は泣いていた。他人を拒絶し、すぐそばにあろうとしてくれたカレンさえも自らの手で壊し、たった独り、自分本位に泣いていた。セッテはそれを見抜いてくれた。


【調整―――】―――それから僕は過去を、犯した罪を吐露した。セッテは僕がカレンを愛していたのだと言ってくれた。憧れていた、のだと思う。僕は人の心へと真っ向から立ち向かうカレンを尊敬していた。陰で蹲っているだけのちっぽけで陳腐な僕は、カレンのような人間になりたかったのだ。


【再構成―――】―――セッテは泣いていた。想像すら出来ない地球の青さを思い描いては、その途方のなさに涙を流した。僕は、頬を伝うその澄んだ雫を美しいと思った。贖罪でも、同情でもない。ただそれだけの衝動。やり方は間違えた。だけどあの瞬間、セッテの手を引いて走り出したことに、一抹の後悔さえ抱いてはいない。


【再編―――】―――特に意味はなく、一緒に食べたオクトフライ。食事は不必要だと言うセッテはそれを美味しいと言ってくれた。張り詰めた逃避行の、束の間の休息。僕はたぶん、生まれて初めて誰かと何かを分かち合った。


【接続―――】―――僕らは引き裂かれた。そして僕は、失意の底で問われることになる。もう隣りにはいない分、僕はより真剣にセッテと向き合った。セッテは僕の手を振り解かずにいてくれた。足手まといの僕を抱え、街中を疾走してくれた。どうして。問いは一方的に響いて落ちた。答えはなかった。覚悟もなかった。だから知りたいと思った。それがどんな答えでも、今度はもう目を背けずに。


 そして――――――。

 僕の手が止まる。感情の奔流に押し流されていくように、あるいは無形の何かへ祈りを捧げるように、人差し指が最後のキーを叩く。

 指先が、ついにカレンの背中に届いた気がした。


【再起動――――――】


 僕は床に突っ伏した。遠退いていた色や音や匂いが一気に戻ってくる。忘れていた呼吸が再開され、早鐘が内側から胸を叩く。汗がこびりついた血に混じり、薄ピンクの雫となって滴った。涙が溢れ、鼻水が漏れ出し、僕は自分でも訳が分からないまま嗚咽を漏らす。

 自分の技術に確信はなかった。成功していればセッテは目覚め、失敗していればどうなるかは分からない。カレンと瓜二つのセッテとはまた別の何かが目覚めるかもしれないし、もう永遠に目覚めることはないかもしれない。

 一秒が永遠にも等しく引き伸ばされているように思えた。


「ナナオ」


 耳元で声がした。

 僕は反射的に顔を上げる。目の前では、セッテが起き抜けだとでも言わんばかりの薄目を開けて僕を見ていた。

 安堵が僕を満たしていく。これまで味わった痛みなど、溶けてなくなっていくようだった。


「ナナオ、やっぱり来てくれたですね」


 セッテの声が真っ直ぐに僕へ向けられる。僕の視界は涙で滲んだ。だけど真ん中に捉えたセッテの姿だけは、決してぼやけることなくそこにあった。

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