3章 逃避行 - 3

「もう! そういうことならもっと早く言ってくださいっ!」

「ナナオ、こっちもです」


 ナナオが急停止。僕は肩が外れそうになる。振り返った正面にはぱっと見えただけでドール捜査官が三機。背後からも追ってくるドール捜査官が三機。


「こっちですっ!」


 僕はセッテの手を引いて細路地へ飛び込む。ゴミ箱を薙ぎ倒して苦し紛れの足止め。ドール捜査官たちは当然のように軽々と飛び越えて追ってくる。

 路地に入ってきたのは三機。どうやら二手に分かれたらし―――。


「ぬうあっ!」


 ちらと後ろを振り返った僕は頭上を掠めていった拳程度の大きさの青い雷球に悲鳴を上げる。雷球は壁に当たって楕円形の焦げ跡を刻んだ。背後のドール捜査官の一機が両腕に、首の短くなったトランペットのような奇妙な小銃を抱えて僕らに狙いを定めていた。

 聞いたことがある。対ドール制圧用の電磁パルス銃。ドールの人工神経系に作用して肉体の自由を奪う非殺傷性の兵器だ。もちろん非殺傷性なので人体に当たっても余程のことがない限り死ぬことはないが、命中すれば一時的な麻痺や失神で動けなくなるのは確実だった。

 全力疾走のなか、僕は焦げ付く髪を掻きながら思考を回す。考えろ。考えなければ確実に捕まる。

 相手は全部で六機。しかも捜査官として配置されるドールは一般に流通するドールよりも人工筋肉の出力が高く、追跡に特化している。加えて人工脳には近接格闘プログラムがインストールされているはずだ。

 加えてこちらは娼婦として使われていた一般ドールが一機。僕は数に数えることすらおこがましい戦力外だ。圧倒的不利。逃げ切れる見込みはゼロに近い。


「くそっ、人間舐めるなよ……っ!」


 だが物事に絶対はない。数学すら、前提が覆れば1+1すら答えを変えるように、この世界には絶対と呼べるものなど―――。


「駄目だっ! 何も思いつかないっ!」


 思考は空転するばかり。打開策など何一つとして思い浮かばない。

 路地を右に曲がる。なだらかな階段を駆け上がる。差し掛かったT字路を再び右に曲がる。放たれた電磁パルスが後ろに振っていた僕の手を焼いた。


「だあああっ!」


 神経を焼き切る痛みが腕の感覚を奪う。力の入らなくなった左腕がだらりと垂れる。


「ナナオ、大丈夫ですか?」

「大丈夫なわけないですよ!」


 僕は涙目で訴える。激痛と恐怖で考えは一切まとまらない。だが何があろうと走る脚を止めるわけにはいかない。止まれば、それはこの逃避行の終わりに―――セッテの廃棄処分に直結するのだ。


「掴まっていてください」


 見かねたセッテが僕を担ぐ。僕はセッテの肩の上で打開策を模索する。僕が考えている間にも差は詰められていく。入り組んだ路地に助けられ、僕らは辛うじて電磁パルスの射線を逃れていたが、捉えられるのも時間の問題だった。

 再び電磁パルスが襲い来る。今度は二射。セッテは軽やかなフットワークで路地を曲がる。雷球が靡いた灰色の髪を焦がし、建物の壁を削る。

 曲がった先―――前方に先回りしていたもう三機のドール捜査官の姿が見えた。セッテは急停止。しかし背後から容赦なく足音が迫る。前のドール捜査官が電磁パルス銃を構える。両手を広げれば両脇の壁に触れられそうな隘路では、電磁パルスを躱す術はない。仮に直撃は避けられたとしても余波は免れない。

 背後の足音が路地へと入ってくる。前のドール捜査官たちが一斉に引き金を引いた。


「セッテさん、今です!」


 発射と同時に放たれた僕の声に弾かれるようにして、セッテが横に跳躍。窓ガラスを突き破って石造りの建物のなかへ。

 砕け散るガラスとともに室内に飛び込み、僕もセッテも派手に転がる。ちょうど朝食を取っていた中年の夫婦が驚愕にあんぐりと口を開けていた。


「す、すいません! ごめんなさい!」


 僕はひたすら謝りながら、顔に突き刺さる破片も気にせずに転がっているセッテを急いで抱き起こす。家のなかを土足で通り抜け、別の窓を突き破って再び路地へと戻る。

 誤射による同士討ちを狙うしかないとは我ながら貧困なアイデアだが、挟まれたあの瞬間に咄嗟に思いついたのだから及第点だろう。セッテを危険に晒すことにはなったが、結果が上手くいっていればいいのだと言い聞かせて、僕は己の不甲斐なさを誤魔化した。

 とは言え、目論んだ通りにドール捜査官が同士討ちをしたのか、僕らに確認している余裕はなかった。運が良ければ三機、悪ければ依然として六機のドール捜査官に追われているという状況はまだ全く変わっていないのだ。

 考えなければ。考えなければ。考えなければ。そしてそう思って焦るほどに考えはまとまらず、代わりに苛立ちばかりが募っていく。

 僕らは慎重に周囲を伺いながら、可能な限りの最速で入り組んだ路地を抜ける。開けた大通りは行き交うホバーライドを止めて強引に横断し、一車線の道路を建物伝いに進む。すれ違う人々の視線が突き刺さる。昼間から血と汗まみれで歩いているのだから当然だった。

 時間の感覚がなかった。いつの間にか日は上り、空の色はほのかにオレンジ色を帯びていた。

 遠く北西の空に、天国から垂れ下がる糸のような細長い建造物が見える。あれこそが火星最大の建造物であり、セッテを救う唯一の道である軌道エレベーターだ。僕らの目的地は手を伸ばせば届きそうなほどで、だがしかし果てしなく遠かった。


「ナナオ、血が出ています」

「大丈夫です」


 セッテが僕にそう言うのは既に八回目だった。つまり僕が大丈夫と答えるのも八回目。ガラスで切れた目の下からは止めどなく血が流れて、服に滲みを作っている。


「ナナオ、血が―――」

「ちょっと静かにしててくださいっ!」


 僕は思わず怒鳴ってハッとする。そうじゃない。セッテはただ僕の怪我を心配してくれているだけなのだ。


「すいません……。セッテさんは何も悪くないのに」

「ごめんなさい」

「いえ、セッテさんは悪くないです」


 僕は身体を固くするセッテに手を伸ばす。だが触れてはならない気がして、僕の掌は空を握って力なく下ろされた。

 自分のなかの感情をただ相手にぶつけるだけならば、僕はセッテに圧し掛かってきた他の客たちと何も変わらない。その狭い視野に自分だけを映し込んでいるならば、カレンを殺してしまったあのときと何一つ変わらない。

 それでは駄目だった。僕のままでは、きっとセッテの願いを叶えることはできない。

 変わらなければならない。だが何がどう変わればいいのか、分からなかった。


「本当にすいません。勝手に焦っていました。僕が連れ出したのに、セッテさんを危険な目に遭わせてばかりだし、走れば足手まといだし」

「ナナオは不思議です。ドールは道具なのに―――」

「違います」


 昨日の夜はどうしてか胸が詰まって、否定できなかったセッテの言葉を僕は否定する。

 何も変われず、何もできない僕でも、それだけは力強く否定しなければならなかった。論理ではない。根拠もない。ただそうしたいと思った。


「セッテさんは道具じゃない。貴女にはちゃんと、心がある。だから貴女は、道具なんかじゃない」


 僕が感情表現モジュールの研究に傾倒したのは、本当にドールがあたかも感情を持っているかのように振る舞い、共感しているかのような素振りを見せるからだったのだろうか。僕は人の手で造られる彼女たちに、本当に人の心と同等の何かが備わっているかもしれないと、期待したのではないだろうか。

 僕は僕が、分からなかった。


「私の心は作り物です」


 セッテは胸に重ねた両手を当てる。僕はゆっくりとかぶりを振る。

 きっとこれは僕の認知が歪んでいるのだろう。ドールは感情を理解したように振る舞うが、感情は抱かない。だから心的なものはあっても心はない。そんな当たり前の事実を、僕は今歪めてしまいたいと思っている。

 だが僕はセッテに向けてどんな言葉も掛けることができなかった。

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