3章 逃避行 - 2
僕らは地球でも有名なファストファッションの店へと入り、セッテの服を揃えた。
とは言え、僕はひどく服装には疎いし、セッテも用意されたネグリジェ以外着たことがないそうなので、店頭のマネキンが着ていた裏起毛のジーンズとパーカーをそのまま購入し、額のシリアルコードを隠すためにニット帽を買った。
目立たず、街の景色に溶け込めるように選んだつもりだが、簡素な量産品の服はセッテの美貌をさらに引き立てた。下手にマネキンに着せるよりも、セッテが着たほうが宣伝効果は高いのではないだろうかとさえ思った。
火星通貨であるマーズドルで支払いを済ませて店を後にした僕らは、少し離れた街区へと向かい、地球から短期滞在でやってくる探索者向けの安宿へと泊まった。不愛想な店主に部屋の鍵を渡され、二階へと上がる。多少ぼったくられたが、眼を瞑ることにした。
部屋は四畳くらいの空間にマットレスと毛布が敷かれただけの殺風景な部屋だ。安宿とは言っても壁や窓の防寒対策はきちんと施されているらしいので、寝ている間にうっかり凍死するということはなさそうだった。
僕もセッテも無言だった。僕はマットレスの上で正座をしているセッテをちらりと見やる。
不思議な気持ちだ。あれほど険悪で、決して交差することなんてないと思っていたはずのカレンが同じ空間にいるような気分だった。もちろん髪の色は違うし、性格だって真逆。そもそもカレンは人間で、セッテはドールだ。だがそれでも、カレンの面影を感じずにはいられなかった。
もしあの雨の日、何らかのかたちで僕がカレンの弱音を受け止めていたならば、こんな未来もあったのだろうか。
互いのラボで成果を競い、ラウンジあたりでふと遭遇しては喧々諤々の議論を交わす。たまに外出すれば酒や食事を囲みながら、やっぱりドール研究の話をする。他に話すことないのかなんて笑ったりしながら、時に忙しなく、時にゆっくりと流れる時間を共にする。
そんな未来も悪くはなかったのだと、今は―――今だから思う。
だけどそんなIFに意味はなかった。どう足掻いてもあの日犯した過ちは、吐いた言葉は取り消すことができないし、カレンはもういないのだ。ありもしない想像を巡らすたび、カレンを喪失したという事実だけが波濤となって僕の心を抉っていった。
セッテは僕がカレンを愛していたのだと言った。
そんなはずはないと、僕は今でも思う。
そんなことを思うことが、許されるはずはないのだから。
僕は自分のプライドのためにカレンを殺した。それだけが紛れもない事実で、ただ一つの現実だ。僕が彼女に抱くべきは青臭い恋慕などではなく、心を引き裂く罪の意識でなくてはならない。
ふと気が付くと、セッテが僕を見ていた。やはりカレンに似ていた。
「休んでいて大丈夫ですよ。走り回ったりで疲れたでしょうし」
「否定します。ドールは疲労とは無縁です」
きっぱりと言われた。確かにセッテの言う通りなのだが、僕の微妙なニュアンスは当然のように伝わらなかったらしい。
「ナナオは、休まないですか?」
「僕は見張りをします。寝込みを襲撃されると困りますし」
部屋には小さな窓がある。そこから宿の前の道路を覗きこむことができた。
「見張りなら私がします。人間は寝ないとダメです」
「寝ないのは慣れてるんですけどね。……それならこうしましょう。一時間半で交代。まずは僕が見張りをします。次にセッテと交代します」
「分かりました」
セッテは引き下がった。ドールは人に抗うようにプログラムされていない。人の身に危険が及ぶと判断できるときは指示に従わないこともあるが、ドールは原則として人に忠実な存在だ。
セッテは足を崩して膝を抱え、顔を埋めるようにして一時停止の体勢に入った。元々静かだった部屋がよりいっそう静かになった気がした。
◇
僕とセッテは互いに二回ずつ、休憩と見張りを繰り返し、朝を迎えた。
セッテの言う通り、人は寝ないとダメらしい。かつての研究のような頭脳労働ならまだしも、街を走り回ったりした身体と逃亡という緊張に晒されていた精神は、僕が思っていた以上に疲れていたようだった。
「さて、行きましょうか」
「行きます」
僕らはチェックアウトをする。宿を出るときドールを首輪に繋いで歩く男とすれ違った。おそらくは他の宿泊者なのだろう。僕は気まずそうにセッテを見やる。セッテは相変わらず無表情で、それについてどう思っているのかは分からなかった。傷ついているようにも見えたし、全く興味がないようにも見えた。何にせよ、それが火星の現実だった。
まだ朝の早い時間だったが、路上には既にシートや屋台が並び、人の通りも増え始めている。この時間から夜と同じように店のネオンライトが灯っているのは、淡い桃色をした火星の昼空が薄暗いからだ。昨日は夜中だったのであまり気にならなかったが、建物が全体的に赤茶けているのも青や緑のネオンを際立たせるためなのだろう。すぐ横の屋台から漂ったソースの香ばしい匂いが僕の鼻孔をくすぐり、空腹を刺激した。
「……ナナオのお腹、不思議な音を出します」
「いちいち言わなくていいんですよ。……セッテさんも食べますか?」
「ドールは食事の必要がないです」
「知ってますよ。でも少量なら分解できますよね」
「……食事は栄養の補給です。補給のできない私が食べる意味はないです」
「意味はありますよ。食事は人同士の親交を深める大事な交流でもあるんです」
というのは、もちろん昨晩の歓迎会でのトムの受け売りである。
僕はふとトムたちのことを思い出した。僕が唐突にドールを連れて失踪したことを、トムたちはどう思っているのだろうか。多くの人間は何とも思っていないだろう。むしろ僕のせいで職場に押しかけてくる保安官を疎ましく思っているに違いない。
だができればトムだけは、僕の身を案じてくれているといいなと柄にもないことを思った。
「ナナオ?」
「ああ、大丈夫です。ちょっと考え事を」
僕は不可解そうなセッテに笑顔を向けてから、頭にバンダナを巻いた男性ドールに指を二本立てる。店主は網の上で焼かれていた茶色い何かに黒いソースをかける。最後に串を突き刺したそれを、僕へと差し出した。
「あいよ! 二つで一六マーズドル」
僕は代金を払って品物を受け取りながら、ドールのボロボロの手を目の当たりにする。人工皮膚が剥がれて中の機械が覗いているのは、ろくなメンテナンスを受けていない証拠だった。さっきの首輪の件もあってか、僕はお門違いな罪悪感に駆られる。
「これは?」
セッテは僕から受け取った串に刺さった揚げ物をじっと見つめて訊ねてくる。僕は気を取り直してそれに応じる。
「火星風オクトフライ、デブリソースのせ、ですね」
ちなみにオクトフライというのはタコの揚げ物のことだ。火星人がタコのフォルムというのはいつの時代に植え付けられたものかは知らないが、火星人はいないと分かった今もタコを押してくるあたり、実に安直だ。
だが美味い。ぷりぷりと弾力のあるタコとサクサクとした衣が絶妙なバランスで耳から食欲を刺激し、デブリソースのあまじょっぱさと僅かな酸味が口のなかに柔らかく広がる。空腹と疲労も食欲を後押しする。ネーミングにはセンスの欠片も感じられないが、味だけは確かだった。
「美味しいですよ」
セッテはじっと手元のオクトフライを見つめたあと、恐る恐る口へと運んだ。黄金色の衣が薄い唇に掴まえられ、小気味のいい音を立てて齧られる。しばらくもごもごと口が動いたあと、ごくりと喉が上下する。
「どう、ですか?」
「……美味しいです」
セッテの言葉に、僕はほっと胸を撫で下ろす。セッテはもう一度、やはり恐る恐るオクトフライを口へ運び、小さく齧っていた。
多くのドールの舌には疑似的な味蕾が備わっている。たとえ作り物だとしても、今セッテは確かに僕と同じものを食べ、同じ味を感じているのだ。もしかしたらきっと、ドールは本来、道具として使役するためのものではなく、僕ら人間の生活に何らかのパートナーとして寄り添うために存在しているのかもしれないと、僕は思った。
僕らは腹ごしらえもほどほどに歩き出す。屋台の料理を片手に歩く僕らは、およそ逃亡犯と逃亡ドールには見えないだろう。元々幼い容姿だったカレンそっくりのセッテと、当時から七年分しっかり年老いた僕の見た目は、カップルとするには少し無理がある組み合わせだったが、街との違和感はないはずだ。
僕は路上の移動式売店で新聞を購入する。逃亡から一夜明け、僕らを取り巻く状況がどうなっているのかを知ることは、有利に逃亡を続けるために必須だった。
当然、娼館のドールが逃げた話などは一面には載らない。僕は手早く新聞を捲り、社会欄と地方欄にだけ目を通した。僕らのことはまだ新聞には載っていなかった。昨日の深夜の出来事だったので掲載に間に合わなかったのだろう。本当はテレビ放送やウェブニュースも確認したいところだが、発信電波から居場所を辿られることを避けるために既に端末は捨てていた。同じように、用のなくなった新聞を、オクトフライの串と一緒に路地裏のゴミ箱に捨てた。
「どうしました? セッテさん」
セッテが真っ直ぐに遠くを見つめていた。僕はセッテの視線を辿る。
「ドールです」
僕は頷く。さっきの屋台のドールしかり、街中にはドールが溢れている。その数は人よりも圧倒的に多い。ずっと娼館のなかで人間の男の相手をしていたセッテからすれば、きっと珍しい光景なのだろう。
彼女の澄んだ瞳に、ろくなメンテナンスもなく使い潰されるドールたちの姿は、そんな横暴を許容する火星の現状は、一体どんな風に映っているのだろう。僕は怖くなった。
「地球は」
僕は胸のうちに湧いた不安を誤魔化すように、慎重に選んだ言葉をかける。
「地球は、もっと自由ですよ。ドールが人に寄り添い、人がドールに寄り添う。たとえば友達のように。恋人のように。家族のように。多くのドールが人の輪のなかにいます。きっとセッテさんも、すぐにその輪のなかで誰かに寄り添って―――」
「否定します」
強い否定だった。遮られた僕は言葉を失い、セッテの顔をまじまじと見つめる。セッテの視線は真っ直ぐに、ある数点だけを順繰りに見つめていた。僕はその視線を辿る。
まだまばらな人混みに器用に隠れるように歩いている人型の影。あるいは屋台の看板から、曲がり角の向こうからこちらを伺っている鋭い視線。奇妙なのは、そのどれもが完全に―――それこそ揃いの仮面でもつけているんじゃないかと思うほどに―――同じ顔をしているということ。
「否定します。ドールがこちらに向かって―――」
僕はセッテが言い終えるのを待たずに手を引いた。わっと、僕らに注意を向けていた影が動き出す。踵を返して走り出す僕らの意志を挫くように、暴力的に鋭いサイレンが響く。居合わせた人々は騒然となって慌ただしく散った。散っていく人々の間をすり抜けてくる、無表情のドールたち。
考えなくても分かる。私服で擬装した保安局のドール捜査官。彼らはおそらく、僕らがあの安宿に泊まっていることを知っていたのだ。その上でチェックアウトして出てくる瞬間を見計らっていた。そうに違いない。
だけどなぜ? 昨晩見つかった保安官は完全に撒いたはずだ。最初にいた繁華街からこの街区までの移動には細心の注意を払っていた。つけられている気配は微塵もなかったのだ。もちろんあの安宿には偽名で宿泊した。なのに―――それなのになぜ?
だが考えている暇はなかった。考えるよりも先に、することがあった。
「もう! そういうことならもっと早く言ってくださいっ!」
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