25.透き通る理〈ことわり〉
割れた尖端は、高山の頂のように鋭い峰が幾重にも並べたようにギザギザになっている。
なのにガラスとは、割れたそこにさえ光を集めキラキラと燦めいている。不思議な清々しさを潔は体感していた。
またふと気がつくと、そこには落胆した様子の富樫がいて、今日が最終の一本に辿り着きそうだからと案じてくれたのか、大澤夫妻もいつのまにか来ていた。夫妻も揃って暗い面持ちでそこにいる。オーナー女史の杏里はもう泣いていて、それを夫の樹社長が抱き寄せ支えていた。
毅然としているのは、やはり、娘のような彼女だけだった。
見守ってくれた人たちへ、潔は普通に、いつもどおりに微笑みかける。
「駄目でしたね。出来ませんでした」
何故か落胆が襲ってこない――。
思ってもみなかった心情があって、潔はそこに驚きたい。
わかっていたんだ……。
『届かないこと』だったのだと。
弟子二人がいうとおり『無茶』だった。
ガラスという物質の性質と、切子の限界を知っていながら挑んだことは、摂理に逆らうだけのことだった。
花南がそっと近づいてきた。
潔が幹を下にオブジェを床に置いて立て、割れた部分を片手に包み込むように見つめているそこにやってくる。
花南の視線も、ギザギザに割れて輝いているそこを凝視している。
「ガラスですもんね。割れること前提で、私たちはガラスを製造している」
ほら。この子はこんなことを言いだすのだ。
決めた20体全て失敗に終わり、見守っていた者たちが落胆している中、花南だけは『違うことを見ている』。
そしてそれはいつも、潔の心に響く。そしてそれはいつも、潔も溶け込める言葉を彼女が用意してくれる。いつも、そう。出会ったときから。いや、あの度胸ある『歪で幼稚な作品』を履歴書と共に送りつけてきたときからだ。
「そうだね。ガラスだから割れたんだ。どうしようもないことに挑んでいたかもね」
潔も自然と口にしていた。
「でも私たちは、手に取ってくださったお客様が使いやすいように製造します。お客様も、割らないように大切に扱ってくれます。扱いにくくても魅惑の物質、それが『ガラス』です」
「しかし、その気遣いをなくしたら、ガラスは壊れやすい性質そのまま、どんなに魅惑の物質でも、壊れていくしかないものだよ」
そこで花南が真理を突いてきた。
「どんなに大事にしているものでも。人間もガラスも、とっても壊れやすい。いとも簡単に壊れて二度と戻らないもの。それが自然の摂理、『
潔の中に、光の矢のようなものが突き刺さった感触が起きる。
さきほど割れたばかりの尖端が光ったようにも見えた。
さらに花南も、潔が見つめているおなじ箇所、燦めく尖端へをじっと見据える。
「いつも思うんです。ガラスはもとは岩石や砂です。それを熱して液状にして、私たち人間が形を変えて物にしていく。砂が液状になることも、液状で形を変えられることも。冷えて固まって新しい形になることも。でもそれがまた、度を超えた衝撃を受けると、簡単に割れて破片になってしまうこと……。この自然の摂理に従って、私たちはガラスを造っている。人もおなじ、ガラスのように強く存在できて、でもちょっとのことで簡単に壊れて命を落とす――」
命を落とす――。
それは花南にとっては、海に落ちて亡くなった姉のこと、悪い男と対峙して亡くなったもうひとりの義兄のことを言っている。
潔もおなじだ。妻は、自動車という大きな力を持っているものに跳ねられて、簡単に命を落とした。
ガラスも人も一緒。『自然にあるものは壊れる。それは摂理で
割れたこの尖端は『ガラスだから壊れた』。自然なこと。
そして潔はここで辿り着いたのだ。
そのオブジェの割れた尖端を握りしめながら、初めて
「そうだ。摂理だったんだ。妻、明菜のところには、届かなくて当たりまえだったんだ。もうずいぶん昔から――。彼女が逝ってしまった時から。いま、やっと、そうなんだと……思い至った……」
『君に届け』と挑んだ設計だった。
だが割れて当然の設計だった。
8センチから先に行けなくなった。それが潔と逝ってしまった妻の、永遠に縮まらない距離。
ガラスは割れるし、人間も簡単に命を落とす。
何度挑んでも割れて、でもまだ輝いているガラスのこの姿は美しい。壊れてしまいもう二度と近づけない『妻そのもの』だったのだ。
男泣き、泣きに泣いた。
ふだん職人である時は、あまり感情を露わにしない花南も黒い瞳から涙をぽろりとこぼし、潔に抱きついてきた。
富樫も泣いている。大澤夫妻も寄り添って、静かに一緒にすすり泣いてくれている。
潔はふたたびガラスオブジェをひと眺めし、そこで見守ってくれていた人たちへと差し出した。
「これで出展、応募します」
花南と富樫にはすぐに通じたのか、涙顔のまま笑顔をみせてくれたが、樹社長と杏里オーナーは驚き顔を揃えていた。
まず樹社長が近づいてくる。
「これを、ですか。親方。この割れてしまったものを、ガラス展に出すということですか」
潔は『そうです』と微笑み返す。
そんな潔を見て、社長夫妻は当惑している様子のままだったが、花南と富樫は顔を見合わせ喜び勇んでいる。
まだ戸惑っている樹社長が念を押してくる。
「え、ええっと。親方、この尖端が割れてしまっているまま出展をするということ、ですよね? その、あの、まるで未完成というか……失敗というか……」
はっきりと『失敗作』と断言することは憚るとばかりに、樹社長は口ごもるばかり。
そんな社長さんに、花南がいつもの生意気な眼差しを向けて鼻で笑っている。
「だからあ、そんな感性だから、樹さんはご自分で選んだ写真では入選できなかったんですよ? 一花ちゃんの慧眼で選んでもらえた写真で入選したことに感謝しませんと」
「え、なに。花南ちゃん。なにが言いたいわけ」
「芸術は『完璧な完成品』と思ってません? 今回の出展は『完璧な技巧』を競うものではないんですよ」
根っからのビジネスマンである樹社長にとってはまだ腑に落ちない言動のようで首を傾げたままなのだが、妻の杏里、このガラス工房のオーナーである彼女には通じたよう――。ぐずぐずと泣いていた目元をハンカチで拭うと、いつもの凜とした経営者の面差しに引き締まった。
彼女が黒いスーツ姿のまま、潔が持ち続けている円錐オブジェまで歩み寄ってくる。
「そうですね。花南さんが言うとおりです。これは、遠藤親方が心から生み出した作品です。この仕上がりに『意味』もあって、『テーマ』もあって、ご本人もこの結果に納得している」
この工房から大きな展覧会へ作品を送り出す責任者、オーナーとしての強い眼差しで彼女が潔に確認をしている。
そして彼女も、潔がどんな想いで職人人生を歩んできたか、ずっと見守ってきてくれた一人でもある。
潔がどんなポリシーでガラスと向き合ってきたか、よく理解してくれたオーナーでもあった。だからその彼女がさらに問い詰めてくる。
「この制作に、嘘偽りはありましたか」
「ありません」
「それならば、親方の信念に従って、割り壊す必要はないですよね」
「はい。私の真実です」
「これが、遠藤潔が送り出したい『表現』ということでよろしいですか」
「はい。……私の、」
潔の頭にふと浮かんだ言葉を口にする。
「私の、『透き通る
割れたことも含め、割れた尖端があっての仕上がりが『すべて』。
すべてを受け入れた者が作り出したもの。
無色透明の気もちで渾身の切子を刻み、最後、どうしようもないことを受け入れる。それが『理』。
旅に出てから、やっと辿り着いた想いだった。
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