9.ガラスに問う

 花南の金賞受賞作品『螢川』。

 いまは彼女の甥っ子『航』の実父であった金子氏の実家にあるという。

 実家は岡山でも由緒ある料亭とのこと。花南の希望でその実家に作品を納めたのだと耀平が教えてくれた。


 見に行くのならば、その料亭に連絡をしてくれると彼が言いだす。

 潔は戸惑う。その男性のご実家。それは、耀平にとっては妻を失うきっかけになった男性で、許しがたい存在ではないのか。


 いや、彼がつい今し方、伝えてくれたことを潔は思い出す。

『怒りは螢の川に流した』と言ったこと。彼はもうただ平らな気もちしか抱いていないのだ。むしろそれこそ無になった。

 なんとも思わない男の実家なのだ。


 花南が小樽でそばにいた時にはわからなかった倉重家の事情。

 大澤夫妻が知ったことで聞かされたこともあれば、花南や耀平から教えてもらったこともある。何年もかけて潔が少しずつ知ったことの中には、『姉は単独事故で海への落下し死去した』、『義兄が姉の忘れ形見を育てている』、『実は甥っ子の航は、義兄の実子ではない』、『姉には学生時代から縁が切れないパートナーがいて……』、『倉重家のために、姉の恋人が悪い男から守ろうと命をなげうった』などなどがあった。

 十代で姉の秘密を背負わざる得なかった花南の苦難。それを潔も聞くだけに留めつつも、花南がひとりで重々しく背負っていた日々を思い出さずにいられなくなる。

 姉の想いを胸にガラス職人へと邁進していると耀平は言ったが、小樽にいたときの花南をそばで見てきた潔は少し違うと感じている。

 秘密を背負った若い女がどう生きていけばいいかガラスに問う。そんな向き合いであって、その秘密を誰にも明かせずに背負っている『しあわせのための嘘』への贖罪。その罪を無垢と化するためにガラスを生み出していたとも思えたのだ。


 似てる。そう、なにか、娘のような彼女と通じていると密かに感じていたのは、そこだったのだろう。


 突然、愛する家族を失った。

 潔は妻をしあわせにすることができなかったこと、守ってあげられなかったことへの後悔と贖罪だ。

 だれもが事故だから仕方がない、潔のせいではないと慰めてくれたが、潔自身はそうは思わない。彼女をもっとゆったりとした生活をさせられる環境にしてあげていたらよかった。自分が稼ぎもそこそこの駆け出し職人だったから、彼女が家計を支えるために奔走してくれていた。せっせと節約のために、あちこちのスーパーへと買い出しに回る日々を過ごさせてしまった後悔。

 彼女を車で跳ねた男を最後まで追い詰めることができなかった後悔。男を追い詰める気力は二年で途切れた。そんなことよりガラスを吹け――と彼女が夢枕に立ったからだ。いや、潔の疲れた心が『ガラスを吹く日々に戻りたい』からと、彼女の言葉と姿を心理的に借りてしまったのかもしれない。そう思えることもあるから、余計に罪を許してしまった贖罪もあるのだと思う。


 ガラスに向き合うときは、どす黒い気もちを携えることは決してすまい――と誓っていた。

 彼女が愛してくれたガラスだから、決して黒いしみは残さない。

 完璧なものだけを残す。他は粉砕する。だから割り砕いてきた。


 そんな潔のやるせない想いと向き合い、立ち向かい、透明にして行く工程。それにそっくりなことをしているのでは……。若い花南が若者らしい遊びもせず、見向きもせず、ひたむきにガラスに向かっている姿に、自分の姿が重なったのだ。


 だから余計に娘のように思えたのかもしれない。


 倉重家の秘密が渦巻く中で生まれた男児、航君――。

 いまは耀平と花南の息子として育ち、立派な青年となっている。

 一昨年、父親である耀平が興した『倉重ガラス工房』を引き継ぎ、社長に就任したという。

 その時に、母親が産みだした作品『螢川』。

 亡き姉ともう一人の亡き義兄をモチーフに吹いたと聞いている。

 息子が立派に倉重家の跡取りとして一歩を踏み出したことで、花南の中の姉と、もうひとりの義兄と、心の中でようやく別れができたのではないだろうか。


 だからなのか。その作品は倉重家には置かれなかったようだ。

 その想いは倉重家から出て行った。無になったのだと潔には思えた。





 素晴らしい金春色に包まれた日を数日堪能し、潔はまた旅立つ。

 次は岡山へ。『螢川』を納めた料亭へ向かう。


「親方、またいらしてください。いつでもお待ちしておりますよ」

「耀平さん、とても楽しませていただきました。心温まる素敵なおもてなしもたくさん、本当にありがとうございました」


 よくある挨拶を最後に、馴染みの彼と別れを交わす。

 彼も歳を取ったと潔は別れ際に耀平をしみじみと見つめる。

 だが彼の微笑みは年を経るごとに悠然と温かさを滲ませるようになった。白髪交じりの頭にはなったが、端麗な佇まいは、倉重の男として養ってきた品格が滲み出ている。

 耀平が若いときからガラスを通して、花南を通して、ここまで繋がってきた。そんな彼のもてなしは最高だった。潔をよく知り尽くして、関係を大事にしてくれていたから。


「いままで小樽を出ることを恐れていましたが、間違っていました。こんな素敵な場所があり、こんなに心が癒やされるだなんて……」


 そして潔は、耀平に笑顔で告げる。


「また妻と来ます」


 目の前にいる彼が目を瞠る。

 妻を亡くしたことがある男同士。その想いは伝わると思う。


 潔の目の前で、今日も気品ある黒スーツの彼がお辞儀をする。


「是非。次回も奥様と共にいらしてください。お待ちしております」


 耀平と別れを済ませたそこで、ロビーの向こうから妙に騒々しい男女の声が聞こえてきた。


「大丈夫? ちゃんとチェックしたのかよ。毎回そうだろ」

「大丈夫だよお、ちゃんと見たもん」

「そう言って。いつもなにかしら忘れて、父さんに連絡して、父さんが持ってくるはめになってるだろ」

「そんな、たいしたもんじゃないもん」

「ほんとに? このまえ、来週使わなくちゃいけない帯締め忘れて大騒ぎして、父さんが慌てて帰ってきたことあっただろ。父さんも忙しいんだから」

「しばらく着物きないもん」

「だから、着物のことじゃなくて――」


 紺のスーツを着ている青年と花南が言い合いをしながら、こちらへと向かってくる。

 彼らの姿を知って、潔の目の前にいる耀平がとたんにくすっと優しく表情を崩した。

 そして潔も。ほっこりお嬢様があれなんだなと笑いが込み上げてくる。

 さらに花南は、『ほっこりお母さん』でもあるのだなと思えた。


 一緒にいる青年が、父親と潔が向き合っていることに気がついて背筋を伸ばした。さらに満面の笑みを見せてくれる。

 立派な青年へと成長した『航』だった。

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