大問1 第1問 言葉

コンクリートで固められた薄暗い道。毎朝この道を行き、そして夜に帰る。

だけどそれも今日で最後か。


小さいころ科学者に憧れその世界に飛び込むべく勉学に励んだ僕だったが、大学に進んだ早い段階で僕に科学者になる才能など無い事を悟ると見る見るうちに学習意欲が腐っていった。

その後は早い、気まぐれに取ったはずの教育免許に縋り、あれだけ自分勝手に憧れ求めた科学から逃げるように中学校の理科教師になっていた。

ただ繰り返される日常を眺めていつの間にか50も中ばとなった今日。何度目とも数えきれないが自分の人生の振り返りを行ったとき初めて『死のう』と心に浮かんだ。別に教師生活がつまらなかった訳じゃない。昔の自分の様に夢を抱き学び舎を巣立っていく子供達を何度も何度も涙を流しながら見送った。

それでも何度めか舞い戻ってきた絶望と虚無感に僕は、もう、抗うことが出来なかった――


「ただいま」

結婚もしていない。ペットも飼ってない。これと言って趣味もない。

使い道もなくいつの間にか貯まっていたお金で買ったこの家は酷くガランとしていて主の僕にすら拒むような冷たさを奥から奥から放っている。

いつもならスーツから部屋着に着替えるところだが最後の日なのだから少しくらいの横着は許されるだろうと鞄だけを背の低いソファーに置き、スーツのまま最後の晩餐を作りにキッチンへと向かう。

趣味という程ではないが料理は僕の唯一の楽しみと言っていい。僕が食材に行ったこと全てが味という形で返ってくるのは残りカスのような研究意欲を大いに刺激してくれた。もしもっと早くこの楽しさに出会っていれば、それこそ僕が科学に魅せられるよりも早く料理に出会っていれば別の道が、などと考えるのはあまりにも見苦しいかぎりだが料理人を目指していたところで僕のこの結果は変わらなかったように思える。

「さて、最後の晩餐ということで少し高めの肉も買ってしまったし今日はフレンチ風のコース料理にでもしようかな」——


飛ぶ鳥跡を濁さずというつもりはないが、汚い部屋で死ぬのはなんだか許せなくて食べ終えた食器を洗っている。その手がなんだか少し歪んで見える。いくら最後の晩餐とは言え飲めもしないワインを飲むんじゃなかった。なぜ僕は食中酒のみならず食前酒や食後酒まで飲んでしまったんだ。

「そもそもだ、なんでくたくたなのに僕はコース料理なんて作ろうと思ったんだ。もう遅くなってしまったじゃないか」

独り言が僕を叱りながらも声が笑っている。

「まったく、最期だというのに僕はどうしようもないやつだな」

酔っ払っているとは言え30年以上繰り返してきた事だ、料理の反省なんかをしながら手を動かしているといつの間にか水滴や曇りのない食器達があるべき場所に片付けられていた。

「さて始めるか」


年齢にしては使い慣れたインターネットからロープの結び方を見つけリビングの梁に輪っかを作ったロープを括り付ける。


「もし来世なんてものがあるなら、もっと不思議なことに満ち溢れた世界がいいなあ」

そんな事を呟きながら僕は椅子を蹴り、ロープに吊るされた。



一切の光がない闇の中で僕の体はフワフワと浮いているような、お酒を飲んだ時と似ているようで少し違う感覚、上も下も分からない感覚に包まれていた。

(ここがあの世というやつなんだろうか?それともこれは夢なのか?それなら自殺失敗しちゃったのかな)

他人事のようにぼーっと考えていると、いつの間にか手が届きそうなところに砂粒のように小さな光が現れそれは瞬く間に人の形をとった。

そんな非現実的なまでに美しい光景に目を奪われていると人型の光から美しい女性の声が発せられた。

「稚鷺 鉚さんですね?」

肯定したいのに声が出せない。呆気に取られているのは間違いないが声が出せない程じゃない。

「大丈夫ですよ。声を出さずとも言いたい事は分かります。ここは稚鷺さんが一生を過ごした世界とは理が違うためここでの声の出し方を貴方は知らないだけです。」

さらっと僕は本当に死んでいた事をカミングアウトされたが、気になるのはそこじゃない。

(ここはじゃあどこなんだ……)

そんな声に出来なかった質問に対して光は答えた。

「そうですね、まずはそこから説明しましょうか。ここは世界アリティスフィアを見守る天界です。あなたにも分かりやすいよう言葉を選ぶとすれば異世界の天国と言えば伝わりやすいでしょうか?」

『異世界』という言葉なら教師をしていた時何度か目にしたことがある。目にしたことがあると言っても生徒が授業中に読んでいた小説を没収した時に少し目を通した程度だが。

つまりナントカとかいう世界の天国という事なんだろう。『異世界』という漢字さえ知っていれば意味は分かる……なぜ僕は今漢字が分かったんだ声を聞いただけなのに。それに僕が元々いた世界の天国じゃないのかも分からない。

「理解が早くて助かります。まず、どうしてここに稚鷺さんがという質問ですが、貴方が最期に祈った願いを貴方の世界の天界が叶えた結果ここへと送られたそうです。」

最期の願いというと

「もし来世なんてものがあるなら、もっと不思議なことに満ち溢れた世界がいい。でしたね。ご安心ください、不思議という一点においてこちらの世界は間違いなく稚鷺さんの願いを叶えてくれますよ。」

光が言った「一点」という言葉に少し引っかかりを覚えたが光はそれに答えることなくもう1つの質問に答え始めた。

「次に、なぜ貴方は私の言葉から漢字が浮かんだかですね。その解釈には少し語弊があります。漢字だけではありません。そもそも私が使っている言葉は貴方が知る言葉ではないのです」

日本語じゃないと言われても私が会話を出来る程度に使える言葉は日本語以外に英語だけだそれも簡単な日常会話のレベルの。あとは大学時代に第二言語として履修したドイツ語もあるがあれは喋るどころか書くことすら出来やしない。光が使っている言葉は日本語ではなかったのか。

「では、稚鷺さんは『バベルの塔』について知っていますか?貴方の世界の神について記した本に記載されている伝説です」

おそらく私の世界の神について記した本とは聖書の事だとは思うが『バベルの塔』という言葉自体は知っていてもキリスト教徒ではない僕にはどんな伝説だったかは正直知らない。

「あぁ少しお待ちください。あくまで想像しやすいよう『バベルの塔』を持ち出しましたがあの伝説は実在しません。呪い以外は」

強調するように呪いと言われても伝説自体を知らない以上ピンとこない

「そうですか、知らないようですし呪いについて短く説明いたしましょう。その呪いは言うなれば人間同士の相互不理解や不和を促進させる呪いです。貴方方の世界の神様は大変嫉妬深い方のようで必要以上に他者との関わりをもてないようその呪いをかけたようですね。と言っても最近では効力が薄れ残ったのは言葉の違い程度ですが」

だから僕は光が発した言葉が理解できたのか。この世界にはその呪いが存在しないから。

「察しが良くて助かります。私達が見守る世界では人間が生まれ持っている相互不理解しか存在しないため言葉の壁がございません。言いたい事をそのまま口から出せば言葉となるのです」

これで概ね全ての質問に答えてもらったということだろうか。科学を愛し追い求めようとした身として鵜呑みにしたくない部分もあるが超常現象に説明されたとあっては飲み込むしかない。これが夢で自殺を失敗した僕が見ている幻覚だと願うばかりだ。

「それでは今度は私から1つだけ質問をさせてください。答えはいつになっても構いません。稚鷺さん、貴方は最期の願いの通りこの世界に転生しますか。それとも貴方がもといた世界の天界へと帰られますか。どちらかをお選びください」

光は言った。僕の意欲を刺激するものがこの世界にあると。なら答えは決まっている。


転生させてください!


その言葉を思い浮かべた途端暗闇は白に埋め尽くされていき、浮遊感は消え体が落ちていく。白に埋め尽くされながらなおも輝く光は静かに静かに落ちいく僕を見送っていた。

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問題です。魔法と魔術の違いを答えなさい! 千芦瑠璃 @tirol

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