『屏風覗き』という妖怪を、
ご存知だろうか。
これは、鳥山石燕による妖怪画集
『今昔百鬼拾遺』に 屏風闚 として
描かれている。七尺もの大きな屏風の
外側から人を覗き込む、長い髪を振り乱し
白い着物を着た女の姿で表されている。
さて、この物語は わたし の実家に
母の嫁入り道具として家宝の屏風が持ち
込まれるところから始まる。
当初から屏風を巡って暗雲立ち込めた
両親の婚礼は、後に人死が出るほどの
凶事を齎す。
但し、そこに怪異は
存在しない。
単なる偶然と、間の悪さと、予断。そして
物陰を恐れる人の 本能 があるだけで。
更に わたし は語る。
時に、静かに。そして時には軽妙に。
一枚の 屏風 に狂わされた旧家の没落の
顛末を。
衝立があるからこそ、何かが隠れる。
光があるから、闇が蠢く。
そして わたし の語る顛末に、きっと
鳥肌が立つ事だろう。
全12話。1話につき2000文字程度で軽く読み進めていける構成になっているが、その内容は禍々しくも得体の知れない何かについての語り。「ホラーですか……。ちょっと苦手かもしれませんね」なんて読者には全くおススメしないどころか、おススメしてはいけない具合の恐怖小説だ。
人間がいちばん恐怖を感じるタイミング。それは恐怖を生み出す怪異やら怪物やらが目の前に現れる寸前。ここの時が一番怖く、それがなぜかというのが、この作品の語るところだろう。恐怖を増長させる要因は人間の想像力。その強さが一番大きくなるのが上記のタイミング。
言ってしまえば、恐怖というのは想像によるところが大きい。読者に、観客に、想像さえることがホラーとカテゴライズされる作品において最も求められる技術である。そうした意味で「小説」という表現方法が、他者に恐怖を伝える上で最も有力な方法だと思う。
その中でも「語る」という行為。これが一番、恐怖を伝達する。本作はその形式を用いて、我々読者に確かな恐怖を伝えてくるわけだ。しかも、これがただの「語り」ではない。語り手の正体が最終話まで判然としない。
著者は、我々に想像させているのだ。
迎える最終話。読み終えたとき我々は体験する。恐怖というものが、その身に迫っていることに気づく。
本作は、岩井志麻子の『ぼっけえ、きょうてえ』を彷彿とさせる優れた短編だ。「妖怪」という日本に土着しているコンテンツに、現代的なリアリズムに照らして語り進められている。ゆえに、描かれる恐怖は真に迫り、その描写は読者の脳裏にこびりつく。
まったく、はた迷惑な作品だ。だが、大好きだ。恐怖小説はこうでなくてはいけない。こんな小説を他にも読んでみたい。妖怪をテーマにした、現代的な怪談を読んでみたい。
本として。一冊にまとめ上げられた作品として読んでみたいと、そう思わせる一編だった。
妖怪とはいったい如何なるものであろうか?
そんな深淵の底をのぞき込むがごとき、本質に迫る恐怖譚です。
「屏風のぞき」なる高名とは言い難い妖怪をテーマとして、ただ屏風の向こうから覗き込むだの妖怪の話で、恐らくは鳥山石燕が残した妖怪画から着想を得て……ここまで掘り下げた話が作れるとは、素晴らしいの一言です。
柳田邦男先生はこう語っています。
「妖怪とは零落した神である」と。
しかし、それでは猫又はどうなのか。元は人間だったものが妖怪化したものだってあるのではないか。そう疑問を抱かれた方もいらっしゃることでしょう。
しかし、それは解釈の違いというものなのです。先生のおっしゃりたかった事は恐らく「信じる心」信仰心についてなのです。
たとえ一枚の屏風に過ぎずとも、しかるべき手順を踏めば妖怪に至る。この作品を読めばそれが納得できるのではないかと思います。
妖怪好きであれば是非!