1:教師とギターと不良少年。


市営陸上競技場の森にはお化けが出る。そういう噂が流行りだしたのは数週間前で、噂話特有の勢いとスピード、胡散臭さを保っていた。

俺にその話を知らせたのは担任しているクラスの生徒の西宮だった。


俺は偏差値も歴史も活気も並であるこの都立高校の数学教師をしている。

校舎の屋上にある職員専用の喫煙所。そこでいつものようの紙パックのリンゴジュースを飲みながら煙草を燻らしていた。今ごろは教師も生徒も週に二回の全体清掃に取り組んでいる。俺は、休憩中だ。

午後の授業は三年生の授業が一コマあるだけで、今日は気楽だった。


校庭の裏の駐輪場の辺りを何を見るともなく眺めていると、また奴を見つけた。ここからちょうど見下ろしたところの、有志の生徒が世話をしている花壇のベンチ。西宮がサボってる。



彼はこの掃除の時間にいつもそこで全体清掃を放棄している。この時間には生徒の誰もが掃除の時間として拘束されていたし、されるべき、されているはず、と生徒も教員も思っていたので、その穴をついたつもりなのだろう。彼はいつも掃除当番を誰かに代行してもらっていた。どこのクラスに少しはいる気の弱い生徒に無理強いしているわけではない。きちんとした報酬を払い--それは時に500円玉であったり、流行っているヴァーチャルYOU TUVERのグッズだったりした--周りの生徒に正に文字通りに”代行”してもらっていた。余計にタチが悪い。


俺はその事実を知っている唯一の、学校側の人間だった。別に彼の担任に報告したりはしないが、一応教師である俺にも見えないところでサボって欲しかった。この喫煙所からは丸見えもいいとこだ。禁煙ブームで俺ぐらいしかここには来ないが。


彼の休息地。花壇の近くの雨をしのげる屋根のあるベンチにこっそり近づいて背中から彼に声をかけたときはクールな一匹オオカミの西宮も、心底驚いていた。抱えているギターを落とさないように器用に支えながらも、足下にスマートフォンを落とした。


「うわ、びっくりした。なんだよ、佐倉かよ」


「佐倉はねーだろ。先生に向かって。

お前、ギターなんかやってるのか。名前は?」

「知ってるくせに。西宮だって」


西宮トウキ。制服は明らかにオーヴァーサイズだったが、彼なりのこだわりってやつなんだろう。髪は艶のない黒で、前髪やサイドは長めだったが、えりあしは学生らしくやや短めに切り揃えられていた。背は高く、体は薄い。入学当初は問題を起こしたり、ケンカっ早いなどと怖がられていたが、最近は穏やかになっただとかで一部の女子からはひっそりと好感をもたれているらしい。

急に声をかけて動揺したのがまだ気恥ずかしいらしく、顔を背けたままだ。


「黙って置いてやったら俺にも報酬くれんのか。西宮くん」

ワックスで整えられた髪をわしゃわしゃとかき混ぜてやる。

「やめろって・・・ギターのことは、誰にも言わないでくれ、なんでもするから」


二人でサボって話をする中で、俺は自販機のコーヒーを飲みながら、西宮がギターを覚束ない手つきで爪引いているのを眺めていた。今の子もギターなんかやるのだな。


「先生の話聞いたことあるよ。あっさりしてるけど悪くない、とか女子が言ってたよ。よかったじゃん」

「おだてて黙っててもらおうなんて思ってるのなら、俺は気が変わってしまいそうだね」

「いやマジだって。・・・えっと、なんだ。このコードがFで・・・くそ、鳴らねぇ。なんだよこれ」


どうやらギターは始めたばかりの様で、背中を丸めて教則本を見ながら、アコースティックギターを抱えて四苦八苦している。

「西宮、下から五番目の弦のチューニングが狂っている。直せ」

こちらの顔を呆気にとられたような顔で見上げ、舌打ちをした。


「なんだよ。先生、経験者かよ。見てないで弾き方を教えろよ」

「何か弾きたい曲でもあるのか」

尋ねると、しばらく罰の悪そうな顔をした後で、

「・・・あいみょん」とボソリつぶやいた。




カバンと今朝買った新聞だけを持って、夕方の職員室を後にする。今日やらなければならないこと以外は無理してやらず、職場に居残らない様にするのが、俺の仕事との付き合い方だった。今日も何事もなく終わった。と、思う。そう思い続けてもう四年、つまりは高校教師になって4年になる。

地味な生き方だと、じぶんでも思う。だが、不満はない。普通でいられることがどれほど幸せなことか、などと道徳みたいなことは言いたくないが、それは実際、しあわせなことだろう。まさしく俺は普通に生きてきたし、きっと普通に死んでゆくのだろう。



オロナミンC を片手に、駅前のロータリーを歩く。駅前は人で溢れていた。駅前に新しくできた映画館の影響だろうか。傘がある分だけ余計に混雑をしている。解けた靴紐を結ぼうとしゃがんでいると、雨がいっそう強く降り出した。雨は嫌いだ。


「雨は嫌い・・・か」




思わず笑ってしまう。口に出してたら本当に雨がきらいになったか。これが言霊ってやつか?


昔は今以上に感情表現に乏しい男(感情自体が希薄なのかもしれない)だったから人と付き合うのにはそれなりの苦労があった。

特別に好きなものもない。嫌いなものも少ない。つまんない男だった。子どもの頃、好きなものや嫌いなものの話になったときは困ったものだった。

嫌いなものがない奴なんて人間らしくないだろう?

だからんだ。

別に雨じゃなくてもいい。なんでもよかったんだ。きっと他に何か手軽に嫌いになったりできるものが見つからなかったんだろう。

嫌いになるものがないのもまた寂しい。あの頃の俺には人間らしい感情というものが欠如していた。何か嫌なことがあったり、苦しい時。悲しい時や憎悪の時。いつも俺は作り笑いをして誤魔化してきた。



結局のところそれが一番楽だったのだ。何かに怒るのも、泣き叫ぶのもとてつもなくエネルギーが要るし、何より余計にその感情にされるがままになってしまう。笑顔は俺の防波堤だった。


俺は隠したのだ。怒りも、苦しさも、悲しさも、憎悪も。周りの人たちは女手一つで育ててくれた一番近い親族である実の母親を含め誰もが俺を温厚だと謙虚だと言った。


俺は、要領だけはなまじよかったぶん、誰もが見抜けなかった。でもじぶんだけはよく分かっていた。俺は怒ってても、悲しくても、苦しくても、微笑むのだ、と。微笑んでじぶんの気持ちを殺していれば、人生を進むのはそんなに難しい事じゃない。そんなふうに生きていた。


そう、俺の仮面を引き剥がし、心を大きく揺さぶってくれる最愛の人に出会う。

そして彼女との出会いこそ俺の人生の夜明けだった。


そして俺は今、再び暗い夜の中にいる。

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