第27話
気が付けば、僕は潮の匂いを嗅いでいた。空高く上がった太陽が砂漠のような砂浜を熱く照りつけていた。
海岸には人がほとんどいなかった。シーズン真っ只中であるにも関わらず、この人の少なさは、この町の寂れ具合を示していた。
花火やペットボトルなど、旅行客が残したであろう、ゴミが砂浜に点々と捨てられているのが目立つ。
あの日の夕焼けの砂浜がふと頭に浮かんだ。それに比べてここはなんて汚いんだろう。そう思ってから、あれが作り物であることを思い出して、小さく笑った。
広い海岸を見渡して、僕はゆっくりと、波打ち際へと向かって歩いていった。遠くで、貨物船の汽笛の音が響く。
僕は鞄を砂浜の上に置いた。くり返す波音の中、僕は目の前の海を眺めた。
そこには彼女がいた。
スカートの裾を海水で僅かに濡らし、彼女は海をじっと見つめていた。
「宮町!」
僕は彼女を呼んだ。彼女はゆっくりと振り返って、僕を見つめた。
「――あの一日のおかげかな。そう呼ばれるのにちょっと慣れちゃったよ」
彼女はあの日会った宮町そのままの姿に見えた。白い肌に、長い黒髪。スカートを太ももの高さで縛り、海水をすくい上げて手のひらで遊んでいる。
「久しぶりだね」
あの時と同じ口調、同じ表情で彼女は言った。
「君もおいでよ。冷たくって気持ちいいよ」
そう言いながら彼女は、髪をかき上げた。黒髪が太陽の光を艶やかに反射させる。
僕は靴を脱いで、海水に足をつけた。浚う水が足を撫でた。
「君が、あの日の宮町弥生だったんだね」
海水で遊ぶのをやめて、彼女は僕を見つめた。確か高校生だと言っていたから、年は近いだろう。もしかしたら年下かもしれない。
「――お母さんが亡くなってからね、お父さんと私で、ずっと日比野さんを探していたんだ。お母さんの大切な人だってずっと聞かされていたからね」
「君は、父さんに会ってどうするつもりだったんだ?」
「とりあえず、亡くなったことを報告するつもりだったの。それから出来ればお線香をあげてもらって、後は色々話をしたかった」
「そこは僕と同じだったんだね」
「ほんと、お互い大変だったよね」
小さく彼女は笑った。
「――でも全然気付かなかったよ。あのときの宮町が君だったなんて」
「私も初めは全然わからなかったよ。君が『頭の上の神様』のことを話題に出さなきゃ気付かなかったわ」
「惜しいことをしたなぁ。何か僕だけ気付かないなんてとんだ間抜けだよね」
「そんなことないよ。お互い気付かないのが普通だって。だって相手が同じ境遇だなんて普通想像しないわよ」
想像出来るわけがない。僕は宮町弥生を知らなかったし、彼女だって日比野忠行を知っているわけではない。中身が相手の子供だなんてわかるわけがないのだ。
「――海岸にいるのよくわかったね」
「雪さんに聞いたんだ。ここに来る前にリッカロッカに行ってたから」
「お母さんのことを聞きに?」
「うん。理由は……君と同じだ」
少し寂しそうに彼女は表情を曇らし、俯いて緩やかな波を眺めた。
「亡くなっていたんだね。日比野さんも」
「手紙、見たんだね」
「うん。お母さんにはもう見れないから、だから私が代わりに」
人差し指で、軽く波をすくってみた。冷たい水が、指先から雫になって落ちた。
「父さんはなんて?」
彼女は僕のほうを驚いた様子で振り返って言った。
「見てないの?」
「あれは、宮町弥生に宛てた手紙だから。僕らは見ないことにしたんだ」
そうなの、と宮町は視線をまた海のほうへと向けた。
「ビデオレターだったわ。――病院のベッドの上でさ、今は奥さんと子供がいて、幸せだよって。君はどうだいって。もう会えないだろうけど、もしもう一度会うことがあるなら、そのときはこの海で会おうって」
その光景が目に浮かぶようだった。父さんはきっと今まで以上に穏やかな顔をしていたのだろう。
「だから私、この海に来たんだ。何となくだけれど、ここに来ることがお母さんと日比野さんの約束のような気がしたんだ」
「約束か。――うん、そうなんだろうね」
僕はそう呟いて頷いた。僕はズボンの後ろポケットに入れっぱなしにしていた携帯電話を取り出した。父さんの書斎を片付けているときに出てきた古い型の携帯電話。もうバッテリーは死んでいるため使い物にはならない。折りたたみ式で、間には古い紙切れが挟み込まれていた。
「僕はね、これを見てこの町に来たんだよ」
「それは?」
彼女は身体をこちらへ向けて、一歩僕に近づいた。僕も彼女に一歩近づき、彼女に携帯電話を見せた。
「宮町弥生が、最後に父さんに残したメッセージなんだ」
折りたたみ携帯電話に挟まれたメモを取り出した。何度も開いた形跡があり、紙は古く黄ばんでいた。
僕はそれを彼女に渡した。
「――ごめんね……」
静かに彼女は呟くようにそれを読み始めた。
ごめんね。こんな形でお別れを言うのを許してね。
一緒に行こうって言ってくれたの、本当にすごく嬉しかったよ。君はいつも私に優しくって、君はいつも私を大切にしてくれて、嬉しかったよ。
何もない私にたくさん優しくしてくれてありがとう。
でも私はやっぱり一人で行くよ。
私には何も残っていないけれど、君には残していってはいけないものがたくさんあると思うから。だから私は一人で行くね。
君と繋がったこの縁を私はずっと忘れないよ。このまま少し途切れてしまうけど、きっといつかどこかで繋がるから。
そのときはお互い幸せになっていようね。またいつか会うときが来たら、そのときはまたリッカロッカで会いましょう。
宮町弥生
読み終えて、彼女はしばらく手紙を見つめていた。
「何度も、読み返したのかな」
ぼろぼろになった紙の端を指でなぞって呟いた。
「うん、きっと何度も読んで、色々考えたんだろうね」
「ありがとう、何かすっきりしたよ」
手紙を丁寧にたたみ直し、彼女は僕に手紙を差し出した。僕はそれを受け取って、また携帯電話に挟むと、それをまた彼女へと返した。
「これは君にあげるよ。――いや、返すと言ったほうが正しいのかな」
僕は彼女の手をとって、携帯電話を握らせると、彼女は驚いた様子で瞬きをした。
「え、でもこれは母さんが日比野さんに宛てたものだから……」
「君に持っていて欲しいんだ」
言葉を遮るようにそう言うと、彼女はまだ少し躊躇いがちに小さく頷いた。
「お母さんの形見、一つ増えちゃったなぁ」
言いながら彼女は微笑んだ。携帯電話を見つめるその目は、子供を見つめる母親のような、あるいは母親を慕う子供のような、そんな優しい目をしていた。
「そう言えば、まだ名前も言ってなかったね」
思い出したように、彼女は言った。垂れた前髪を払って、彼女は微笑む。
「さつき、だよね。宮町さつき。リッカロッカで雪さんが教えてくれた」
「葛西だよ。葛西さつき。宮町は母さんの旧姓だよ」
「あ、そうか。結婚してるんだから当然だよね」
僕が、変な納得をすると、彼女は少し俯き加減にこちらを流し目でちらりと見ると、躊躇いがちに口を開いた。
「ねぇ、下の名前で呼んでいい? 日比野くんって呼ぶと、君のお父さんのこと呼んでるみたいな気になるからさ。――それから、私のこともさつきって呼んで欲しいな」
「別に構わないけど……」
友人にも下の名前で呼ばれたことのない上に、下の名前で友人を呼んだことのない僕にとってはほんの少しハードルが高い気がして、気が引けたが、照れ隠しに水遊びを始めた葛西さつきの提案を断ることが出来なかった。
「まさと」
こちらを見もせずに彼女は呟いた。
「さつき?」
「何で疑問形なのよ」
「――女を下の名前で呼ぶの慣れてないんだよ。普段、苗字で呼ぶのに慣れてるから……」
ふぅん、とさつきは僕の目を見つめた。そして僕とさつきは何だか照れくさくなって、俯いて笑った。
それから僕は静かに海を眺めながら思った。
父さんと宮町弥生は、別れて二十数年、結局一度も顔を合わせることもなく、互いの死を知ることもなく、遠くへと逝ってしまった。
だけど僕は今確かに感じている。
父さんたちが繋いだ縁が、遠く巡り巡って、今僕たちを繋いでいることを。
僕は隣に立つさつきをちらりと見る。静かに手に持った白いケイタイを眺める彼女の黒髪が、風になびいてふわりと揺れていた。
僕はいつまでこうしていられるだろう。そんなことが頭に浮かんで、僕はすぐに人差し指で親指をはじいた。
どうしたらいいかなんてわかってる。
「――さつき」
僕は声が震えないように気を張って、彼女の名前を呼んだ。出来る限り明瞭に、はっきりと。
さつきは振り返って、悪戯っぽく笑って見せると、
「――手だけ握って」
と、一言だけ呟いた。
軽く小指同士が触れ合った。
静かに、僕らは軽く手を握り合った。あの日、日比野忠行として、宮町弥生と握り合った手ではなく、僕が、僕として、隣に立つ葛西さつきの手を握った。
「ねぇ、後でケイタイの番号教えてね」
僕は頷く。彼女は目を瞑って、静かに言った。
「こうして出会ったのも何かの縁だしね」
波の返す音が響いた。浚う水は僕らの足を優しく撫でた。
ずっと昔、父さんたちもこんな風にこの海を眺めただろうか。こんな風に手を繋いだだろうか。
父さん、今、父さんはハッピーエンドを感じているかな。父さんの物語はハッピーエンドを迎えられたかな。
遠くの空を眺めて問う。答えは返ってこないけど、ただ僕の胸の奥は、静かに優しい波がくり返される。
隣に立つさつきの手の温もりを感じながら、僕は頭の上の神様に願わずにはいられなかった。
こうして繋がった僕らの縁がどうか途切れずずっと続いて行きますようにと。
いつか巡り会うきみへ 佐渡 寛臣 @wanco168
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