毀れたイメージの群れ
f
1.
生まれる前、僕は何度も死にかけたそうだ。けっきょく、生まれ落ちた時は健康そのものだったのだが。初めてその話を両親から聞いた時、僕はたいして何とも思わなかった――生まれる前に自分が死にかけたところで、今の僕には何の関係もなかった――でもいつからか、この話を思い出すとこんな冗談が頭を過るようになった。
「人間にとっての最大の幸運は、この世に生まれないことである。だが、そんな幸運を手にできる者は一万人に一人もいない」
もしかすると、生まれる前の僕は「百万人に一人の幸運」を手にしようとしたのかもしれない。
*********
僕のいちばん古い記憶はくらやみだ。いつのことかは分からない。僕はひとりでくらやみの中にいた。ほかには何もなかった。それはとても居心地がよく平穏で、僕は満足していた。
僕は死者と話すことができた。うんと幼かったころは、死者と生者の区別がつかなかった。死者には影がない。表情は、生きている人間とは明らかに違っている。しだいに僕は死者と生者を見分けられるようになった。自分以外に死者が見えていないことは薄々感じていたので、誰にも話さなかった。
死者たちも生きている人間が見えていないのかもしれないと思ったことがある――死者は一人で、もしくは集団であてもなくさまよっている。たいていの場合、僕が話しかけても返事はなく、黙って通り過ぎてゆくだけだった。たまに応えてくれる死者がいたとしても、長居はせずすぐにいなくなってしまう。
影は奇妙なものだ。光があるかぎり、僕は闇を連れて歩くことになる。幼い頃、僕はよく地面に黒々とうつしだされた自分の影のふちを指でなぞった。影の指も僕と同じことをする。自分はいま、影になぞられているのだ、と僕は思う。光のないところでも、影は僕といっしょにいる。影は僕をとりかこんでいる。
僕は時おり、影に向かって語りかけた。
死者は闇を好む。昼間でも死者を見かけることはあるが、夜ほどではない。僕もくらやみが好きだった。僕の影が薄くなり、死者の一員になったような気分になれた。くらやみは何よりも安全な場所だった。
だが少し大きくなると、僕はくらやみを恐れるようになった。闇の中には得体の知れないものがひそんでいるのでは?僕はそう思った。彼らが僕に害をなすかどうかは問題ではなかった――彼らの存在そのものが恐怖だった。きっとそれが見えてしまえば、何も恐れることはなかったと思う。
それが見えず、何がいるのか分からず、その存在を否定できないがゆえに、僕は怖かった。闇の中には何かがいるだけだ。どんな理由で、彼らが僕を傷つけるというのか。
もし、そこになにもいないのなら、僕を見つめているのは誰だ?
一時期、僕の部屋に死者が住みついていたことがあった。彼は――彼女かもしれない、性別はよく分からなかった――いろいろなことを話してくれたのだが、どんな内容だったのか、今はほとんど思い出すことができない。わくわくすることもあったが、大部分はもの悲しい話だったように思う。たまに彼は奇妙な忠告をすることもあった。
「飛び去るものは信用ならない――過去、命、蛾や羽虫、ああ、呪われている――やつらはいろんなものをめちゃめちゃにする」
そのうち彼はいなくなった。いついなくなったのか分からないくらいひっそりと。
*********
長年死者を見ているうちに、僕は誰にも気づかれずにいる術を学んだ。ゆっくりと呼吸をし、空気に溶けこむ。動く時はひそやかに。いちばん大切なのは、なんにも考えないこと。
少年時代、僕は仲間たちと一緒に色んな所へ探索に行った。さほど遠くには行かなかったが、空き缶や石ころを蹴飛ばしたり、棒で溝をつついたり、意味もなく雑草を引き抜いたり、あるいは捕まえた虫を誰かの襟首から背中に滑りこませたりしながら進んだので、わずかな距離を行くにも気の遠くなるような時間がかかった。僕たちは住宅地を抜けて、橋を渡り、その先にある公園の二本の柊の木の間をくぐり、フェンスの裂け目にもぐりこみ、線路ぞいを歩く。町の外れまで来て、古くて落書きだらけの、短いトンネルの向こうに出る。
そこには打ち捨てられた空き家があった。もともとは誰かが住んでいたのかもしれない。しかしここ何十年も、もしかすると何世紀も人が住んだことはなさそうだった。その家にあるのは、恐ろしいほどの沈黙と、なにかの化け物。それがなんなのかも、どんな姿なのかも知らなかったが――なにせ、中に入る勇気のある者は誰ひとりとしていなかった――なぜか僕たち子どもはそのことを知っていた。大人たちは誰もその空き家には寄りつかなかった。誰もその存在に気づいていなかったのかもしれない。
いつのことだったか、僕は何人かの友だちと肝試しをした。意気揚々と出発し空き家に着いたものの、最初に足を踏み入れようとする者はいなかった。空き家はなんの物音も立てず、ひっそりとそびえ立っていた。
けっきょく、中に入る者はくじ引きで決めることになった――僕は
友だちに囃したてられ、僕は引き下がることができず空き家の中に入ることになった。柱や梁に、かろうじて壁や天井が張りついているが、そこにはなにもいないように見えた。何かがおかしい、ここには何かがいるはずだ、と僕は考え、天井を仰いだ――黄ばんだ天井には錆色の手形がひとつついていた。後ろをふり返ると、首を吊られた男がわずかに揺れていた。
死者だ。
「こんにちは」僕は言った。
「おまえ、死人に話しかけるとは妙な趣味だな」吊られた男は言った。
「死んでから、何か変わったことは?」僕は尋ねた。
「前と似たようなもんさ。吊るされているぶん、眺めはいいがね」男は陽気と表現してもいいような口調で答えた。
しばらくどちらもしゃべらなかったが、おもむろに吊られた男が話し始めた。
「あるところに、眠るのをものすごく恐れているやつがいた」
「どうして?」
「そいつは、寝ている間に自分が死ぬかもしれないと思っていたんだ」
「それから?」
「そいつは死んだ。もっとも、眠っている間じゃあなかったが」
僕らは長いこと黙っていた。死者はいなくなった。廃屋には誰もいない――それが、僕は急に怖くなった。
それから僕は、外に仲間を待たせていることを思い出した。廃屋を出ると、仲間たちはとっくにいなくなっていた。
*********
その日、学校に行くと、そこは戦場のように混沌としていた。誰もが狂ったように叫びながらものを振りまわし、殴り合いをし、床には血を流しながら倒れている子どもがたくさんいた。あたりは赤く、鉄のにおいがした。暴れている子どもたちはみな狂喜していた――というよりもとても楽しそうに見えた。声を上げて笑いながら、窓から飛びおりる子もいた。あまりにも騒々しいので、僕は身を固くする。
僕はあの中に紛れ込むことができる。でもそんなのはばかげている。
僕は自分のロッカーを開けた。中には人間の首がぶら下がっており、僕に向かって舌を突き出していた。僕はそっと扉を閉め、少し待ってからもう一度開いた。生首はなくなっていた。
まわりの喧騒も消えた。
僕はひとりで廊下を歩いていた。誰もいない空間に乾いた足音が響く。電気は付いておらず、暗い。外からは風の音がした。窓ガラスがガタガタ鳴っていた。
*********
僕の家のそばに一本の架道橋が伸びていて、時おり架道橋の上を汽車が通った。どんな人々が乗っているのかは分からなかった。
夜、僕はときどき家から抜け出して、架道橋の柱のそばに横たわった。地面にはまばらに雑草が生え、乾いた土が顔を出していた。僕は地面に耳を押し当てて目を閉じる。湿った土と、乾いた草のにおいがする――やがて、低い、暗い色のノイズとともに大地が揺れ始め、痛みを覚えるほどの地響きを立てて汽車が通りすぎるのを感じた。汽車の走る音は恐ろしい。まるで巨人の叫び声のような音がする。叫び声というよりも、咽び泣きといった方がいいかもしれない。この音に、僕はいつも心をかき乱された――でも、聴かずにはいられなかった。頭の奥の、悪い記憶を呼び覚ますような音。その叫びが何を言っているかは分からなかった……そのことも恐ろしかった。
あの汽車は、どこへ向かっているのだろう?どこからでも出発することはできる。だが、いったい終着地はどこだろう?
ある日、僕の目の前で架道橋を進んでいた汽車が脱線し、橋を乗り越えて落下した。すさまじい振動が起こり、汽車は頭からぐしゃっと潰れてしまったが、僕には何も聞こえなかった。耳が聞こえなくなったのではない。ただ、僕にはその音が聞こえなかったのだ。あれだけ大きなものが落下し破壊されたのだから、音がしないはずはなかった。汽車の中からたくさんの部品がぐちゃぐちゃとあふれ出し、煙が上がっていた。窓ガラスは粉々に砕けていた。汽車は死んだ動物のように地面に横たわっていた。
*********
ある瞬間を境に、僕は世界というものをはっきりと認識するようになった。僕はすっかり面食らってしまった。僕は何も分かっていなかったのだ。影がとつぜん実体を持ってしまったかのように、僕はあらゆることを学び直さなければならなかった――その結果、以前ほど上手くできなくなったことや、やり方が分からなくなったことがたくさんあった。存在そのものをすっかり忘れてしまったものもある……僕は中にたくさんの空白ができた。しばらくは、そんなことにも気づかないくらい混乱していたが。
だんだんと、僕の感覚はないまぜになった。それでも、どうにかして逃げのびなければ――虚無、空白、消失から。
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