第12話 桜がよい香りなのは

 時間がない。春子はトンカビインズを一パアセントに希釈して、手元の瓶にほかの精油と混ぜ合わせ始めた。滴数の案は書き出していたものの、ぶっつけ本番の一発勝負というていだ。香りの時間経過など確認できない。香水は本当はもっと心穏やかに、慎重に吟味して作るものだ。けれど、今はそれができない。だからやるしかない。

 バラを中心に据え、柚子を加え、ゼラニウムは少なめに。トンカビインズは慎重に少しずつ増やしていく。混ぜて、最初にちぎっておいた和紙に香りをほんの少しつけて、振ってアルコオルをとばしてからかぐ。香りが分からなくなってきたら、着物の二の腕の匂いをかぐ。

 香りが単調な気がするので、スタアアニス、はたまたプチグレンを隠し味のように足すべきか。迷って、両方とも少なめに加えた。吟味する時間がないのが歯がゆい。けれど自分の勘を信じたい。

「春子、時間だよ」

 そばで春子の作業を見ていた子槻が、懐中時計に目を落とし、顔を上げる。

「はい」

 春子は和紙に香りをつけて、子槻へさし出した。不安か、緊張か、鼓動が速い。

 子槻は受け取った和紙を顔の前にかざして、瞳をひらいた。

「これは」


 数十分後、このりに連れられ、洋間に國彦とハナがやって来た。先ほどとは別の部屋だが、真ん中に同じように大きな机が置かれている。絵皿などの調度品に混じって、まだつぼみの立派な桜の枝がところどころに生けられていた。

 レエスの窓かけの向こうは雨のせいもあってかもう真っ暗で、吊りランプとたくさん置かれた石油ランプの橙色が部屋の中に淡く満ちていた。このりが気付いたようにえんじ色の分厚い窓かけを引いていく。

 広い机を挟んで、國彦とその隣にハナが座り、向かいに子槻と春子が座った。

 國彦は石油ランプと桜の入った花瓶しかない机に視線を流して、瞳を細めた。

「間に合わなかったのならば呼び出すな。わたしは暇ではない」

「ときに父上」

 席を立ちかけた國彦を、子槻の柔らかい声が制す。

「よい香りですね」

 子槻はつぼみの桜の枝を手で示した。國彦は表情を変えず、子槻に視線をやる。

「お前のざれごとに付き合っている暇はない。約束どおり世迷い言をあらため、その娘とも二度と会うな」

「そう急がず。まだ何もお話ししておりません。今さっき庭から切ってきたばかりなのです。まだ花がひらいていないのに、桜とは枝だけでこんなにもよい香りがするものなのですね」

 春子は空気を吸いこんだ。火を入れたばかりの石油ランプと火鉢の炭の匂いに混ざって、香りがする。ほんのわずかに酸っぱい、みずみずしくてとがった、桜の香りだ。

「だから何だというのだ。桜がよい香りなのは当たり前だろう」

「ええ。よい香りです。母上はいかがですか?」

 子槻はにこやかに、國彦の隣のハナヘ顔を向けた。ハナは自分が話に加わると思っていなかったのか、うろたえて國彦をうかがったあと、微笑みを作る。

「桜がよい香りなのは当然です。子槻さんもお好きでしょう?」

 子槻は柔らかく、けれど強く、微笑する。

「ええ。わたしも桜の香りが大好きです。春子」

 振り向かれて、春子は体に力を入れて、向かいの國彦とハナを見つめた。

「香水を、作らせていただきました。今この部屋に香っている、桜の『香水』です」

 國彦が、ハナが、気付いたように目を見開いていく。

 春子が作ったのは、桜の香水だ。

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