第11話 トンカビインズ

 花の香り、果物の香り、草の香り。順に頭の中に描き出していくが、これだと思うものがない。それに、今日は自分が香水をつけているので、香りを思い出そうとするとき混ざり合って綺麗に描き出せない。

 そこで、止まった。春子は今、香水をつけている。自分で作った香水だ。その香りは。

 思わず叫びそうになり声を飲みこんで変な音をたててしまったので、壁際に控えていたこのりが驚いたように春子を振り向いた。申し訳なさと、なぜ気付かなかったのだろうという思いと、興奮でこのりへ首を振り返す。

 作れる。これなら春子が今一番作りたいものだと胸を張って言える。

 頭の中で処方を組もうとしたとき、扉がひらいて子槻が足早に入ってきた。早い。時計がないので正確には分からないが、本当に四十分ほどしかたっていないだろう。両手に黒い革の大きな鞄を下げている。

 子槻は春子のそばで鞄を机に置くと、真ちゅうの留め具を外した。

「今ある種類はすべて持ってきた」

 中から、区切られた木箱に入った茶色の瓶が出てくる。どんどん机の上に並べられていく瓶は、春子がふだん使っている小瓶から卸用の大瓶までさまざまだ。ラベルを見ると、なじみのあるものからまったく名前を知らないものまで、ざっと五十本はあった。精油ではなく、外国で出回り始めたばかりのバニリンという合成香料まである。

 作りたい香りに不可欠な精油の名前を、瓶を傾けて探す。けれど。

「あの、トンカ豆は、トンカビインズという精油はありませんか?」

 隣の子槻を仰ぐと、子槻は困惑したように眉を動かした。

「ここになければないが……」

 春子の胸の中に焦燥が走る。トンカビインズの精油がなければ、春子の作りたい香りは作れない。春子の家まで取りに行けば往復二時間、絶対に間に合わない。

 ここにあるもので作りたい香水を考え直すしかない、そう気持ちが沈みかけたとき、子槻が合点のいったような小さな声をあげた。

「トンカビインズとはあの香りか」

「そうです! ご存じですか?」

 子槻はもう戸惑いのない目で頷いた。

「思い出したのだ。先日、調香師に売った。君の『涙香』を真似て作らせた調香師だ。今すぐ借りてくる。二十分で戻る!」

 子槻は言い終わると同時に洋間を飛び出していった。春子はまたたいて、遅れて理解して、「お願いします!」ともう聞こえてはいないだろう扉の向こうへ叫んだ。

 子槻はトンカビインズの精油を持って帰ってきてくれる。そう信じて、春子は机の上の筆を取った。使いたい精油を、ちぎっていない和紙に書いていく。春子は合成香料を使ったことがないので、使うのは精油のみだ。

 使いたい精油を書き出したら、精油をスポイトで小瓶に取ってエチルアルコオルで希釈する。溶剤抽出のバラは五パアセント、ゼラニウムは十パアセント、柚子も十パアセント。原液で混ぜ合わせるよりも希釈したほうが量の調整もしやすいし、香りの細部が把握しやすい、と香りをなりわいとしていた母から教えられた。

 トンカビインズがあると考えて、どれを何滴入れてどんな香りにしたいか頭の中で組み立てる。いつも作っているように、計百滴とする。

 和紙に滴数の案を書きつけていたら、騒々しく扉がひらかれて、息を切らせた子槻が駆け寄ってくる。

「トンカビインズだ! 春子」

 子槻が手渡してくれた茶色の瓶は、たしかにトンカビインズのラベルがついていた。ふたを開けてかぐと、あの特徴的な香りがする。

「ありがとうございます! これで作れます! 今何時でしょうか?」

 子槻は急いたように背広の下、チョッキのポケットから金の懐中時計を出す。

「五時半だ。あと三十分だ」

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