第10話 我以外皆我師
騎士爵の出身とはいえ、六男ともなれば果てしなく平民に近い。
ワッツはその事実を受け入れ、貴族学園の教職につけた幸運を素直に感謝していた。
何しろ、戦争は当分起こる気配がない。剣術と乗馬しか取り柄のなかったワッツに教師は適職で、何事もなく七年目を迎えようとしていた。
しかし、そこに油断があったのだろう。
高慢な公爵令嬢が男子でも難しい障害に挑戦すると言い出した時、失敗しても大した事にはなるまいと高を括ったのが誤りだった。
実際、乗馬の腕だけは確かな令嬢だったからだ。
ところが、頭から危険な角度で落馬してしまう。
ピクリとも動かず、呼吸が止まっていた。
ワッツは、自分の心臓も止まったかと思った。
慌てて、以前軍隊で習った蘇生術を開始する。
胸骨圧迫を三〇回、人工呼吸を二回、これを永遠と思えるほど繰り返した。いや、本当は数分だったのかもしれないが、ワッツには永遠と思えるほど長い時間だった。
可愛い盛りの三歳の息子の顔が目に浮かんだ。家族のためにも、職を失う訳にはいかない。
ワッツは、今まで生きてきて一番必死だった。
公爵令嬢が自発呼吸を再開した時、ワッツは涙を流した。周囲は生徒を救った喜びの涙だと受け取ったが、本音は最悪でも解雇だけは回避できただろうという安堵の涙だった。
ところが、蘇生したものの公爵令嬢の意識は戻らず、校医とシルビアというクラスメイトが同乗した馬車で公爵家へと戻って行った。
それから三日間は生きた心地がしなかった。
学園長に呼び出され、このまま意識が戻らなければ、即刻クビだと釘を刺された。
ワッツは、真剣に自分の家の狭い庭でどれ位の野菜が収穫可能かを計算した。
四日後、令嬢が意識を取り戻したと連絡が入る。
ワッツは胸を撫で下ろし、神に感謝した。
そして、事故から二週間後の今日、登校を再開するという。
あの高慢な令嬢の事だ。会えば自分の失敗は棚に上げ、ワッツを一方的になじるだろう。
しかし、ワッツは覚悟していた。
別に、実際の戦闘だけが男の価値ではない。家族のために理不尽に耐える事も、立派な父親の姿なのだ、と。
嫌な事は早く済ませた方が良い。
そう思ったワッツは、授業開始前に自分からサンドラに会いに行く決心をしていた。
職員室を出ようとすると、それを察した同僚の数学教師が声をかけてきた。
「ワッツ先生、大丈夫ですよ。少し嫌みを言われるだけです。私なんかしょっちゅうですから。リラックスして行きましょう」
持つべきものは友だと心から思う。
「そうですね、嫌味は慣れてるし。では、行ってきます」
ところが、職員室を出た瞬間に鉢合わせしたのは、その公爵令嬢だった。
驚きで飛んで下がったワッツだったが、公爵令嬢は身じろぎもせず、落ち着き払って立っている。
「サンドラ様! 良かった。ご登校されたと聞いて、体調のお伺いに行く所でした」
サンドラは、公爵夫人直伝のカーテシーでご挨拶する。
「おはようございます、ワッツ先生。私も先生を捜しておりました」
顔を上げたサンドラの目を見てワッツは驚く。
以前の底意地の悪い光が全くない。
「この通り、先生のおかげで再び学園に戻る事ができました。先生は私の命の恩人です。このご恩は一生忘れません。父も御礼をしたいと申しておりました」
言い訳の言葉は何通りも準備していたワッツだったが、感謝されるとは思っていなかった。
「そんな、サンドラ様……私は教員として当然の事をしたまでで、何というか、その……」
「ワッツ先生、私は先生よりご指導を賜る身。どうぞサンドラとお呼びください」
「いやいや、いくら何でも公爵家のご令嬢をそのようには……」
「シルビアさんから聞いております。先生が私を助けてくださった時、どれほど必死だったかを。流れる汗を拭きもせず、水溜まりができるほどだったと。先生への感謝は言葉では言い表せないほどなのに、様などと呼ばれては陽の下を歩けません」
サンドラの感謝は本物である。ワッツが助けてくれなければ、前世、今世と続けて非業の死を遂げてしまうところだったのだから当然だ。
それに、前世で何度か蘇生術を試みた事があったので、その大変さとこのまま死なせてしまうかもしれないという追い詰められた精神状態は十分に理解できた。
対して、ワッツは自分が恥ずかしくなった。この令嬢から罵られると、なぜ一方的に決め付けていたのだろう。
確かに、これまではいつも見下した態度を取っていた。だがそれは、真剣に教育に向き合っていない自分を見透かしていたからではないか?
その証拠に、必死の思いでやった蘇生に対してはこれほど讃え、今では尊敬しているとまで言ってくれる。
「わかりました。お望みでしたら、これからはサンドラさんとお呼びしましょう。だけど忘れないでください。私もあなたから沢山の事を学びました。あなたも、私にとっての師なのです」
サンドラは、この教師の言葉に強く胸を打たれた。
「我以外皆我師、ですね」
ワッツも、自分の気持ちを表した短い言葉に感心する。
「素晴らしい言葉です。初めて聞きますが?」
戦国末期から江戸初期を生きた偉大な剣豪、そして前世における乾家の
「遠く東の国で剣の道に生きた達人の言葉です。謙虚に生きる事に人の向上があると説いています」
ワッツは自分を恥じた。
体育教師だからと言って、脳味噌まで筋肉であって良いという訳ではない。もっと本を読み、人の話を聞いて見識を広げなければ。
サンドラの隣で、サンドラをうっとりと見つめていたシルビアが急に言った。
「ワッツ先生。私もシルビアとお呼びください」
「クスッ、サンドラさんの真似ですか。いいですよ、シルビアさん」
二人はワッツに向けて一緒にカーテシーをすると、教室へと戻って行く。
ワッツはそれを見送りながら、今日のサンドラと同じ目をした人物を思い出していた。
軍隊にいた頃、『戦場の狂犬』と呼ばれて英雄視されていた上官だ。
当時すでに初老の域に入っており、狂犬と呼ぶにはあまりにも穏やかな紳士だった。
その上官が、一度ワッツに話してくれた事があった。
「若い頃は、自分が生まれてきた事に何か意味があると思いたがるものだ。だが、戦場で人の死を見て、自分も死に直面すると、そんなものはないとわかる。幻想さ。全ては偶然、神の気まぐれなんだよ」
何かを悟ったあの目を、わずか十七歳の少女もしていた。まるで、いくつもの死線をくぐり抜けてきたかのように……
その目に東洋的な神秘性を感じたワッツは、サンドラの後ろ姿に向かってそっと両手を合わせた。
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