最終話

 一心不乱に逃亡していた獣は、痛みから歯を食いしばりそうになります。それだけはあってはならないと、やわ肌に歯牙を突き立てぬように薄い身体分、口を開かせていました。


 細心の注意を払っていたこと。ぐらぐらと目眩を起こしたことで、獣は足をもつれさせてしまいました。


 少女は獣から放り出されます。茂みに落ちた少女は弾みから、地面へと全身を打ち付けました。無数の擦り傷を負いましたが、すでに底付きそうな力を振り絞り身を起こすと、急いで獣の元へ駆け寄りました。


 暗闇の中で、獣は四肢を投げ出し、荒い呼吸を繰り返しています。綺麗な緑色の毛並みは真っ黒に濡れそぼり、血生臭いにおいを放っていました。見開かれた眼は、少女を写しています。瀕死の状態であろうとも、瞳に宿る光は失われていません。


 そして、足をガクガク震わせつつ、獣は立ち上がりました。言うことをきかない身体を引きずって、獣は少女を誘導していきます。歩をすすめる度に、口の端からうめき声が漏れていました。


 少女は寄り添いながら、事あるごとに獣を窺っていました。さっきから毛を引っ張ったり、獣の前に立って歩みを止めようとしたりしているのですが、一向に止まる気配がないのです。


 住処から大分離れたのですから、一度くらい横になって休んでほしかったのです。今も傷口から鮮血が滴り、赤黒い足跡をつくっていました。獣の身を案じて、涙が溢れてきます。


 確固たる意志を込められた眼差し。ただ一点を見つめ続ける姿が、強く印象に残りました。この獣はどこを目指しているのだろう。疑問を抱いていると、前方の木々から、月明かりが射し込んでいることに気づきました。


 目の前には原っぱ。緩やかな上り斜面の先に、煉瓦で作られた屋根。あれは以前、獣に連れてこられた農村です。村を見た途端、少女の背筋が凍りました。


 獣は思いました。このままでは守りきれない。だから元の世界へ返そうと、少女を導いたのです。


 獣の思考を察したのか、前足にへばり付いて、いやいやと首を振って離れません。駄々をこねる少女を、獣は鼻面で押します。グイグイ押して、とうとう森から追い出しました。


 月光の下。涙で揺れる青い瞳と、仄暗い森の中から見据える琥珀の瞳。


 程なく、少女は名残惜しそうにしつつも、村を目指すことにしたようです。草原を歩き、森から少しずつ、少しずつ遠ざかっていきます。


 心の底から安堵した獣は、しばらく小さな背を見送り、時を置かず森に紛れ消失しました。


 少女と獣の生活は、終わりを迎えました。


 ボロボロと大粒の涙をこぼす少女は、村への歩みを止めませんでした。後ろを振り返りたくてしょうがありませんでしたが、絶対にそれはしないと、必死にこらえておりました。


 獣を見てしまったら、あの柔らかな体毛へ駆け寄り、抱きつきたくなってしまうと分かっていたからです。


 少女は獣に会う前の、カタクリの花畑で苛まれたあの孤独感に、また押しつぶされそうになっていました。しかし、戻ったらきっと、あの怪我だけでは済まない。少女は頭の片隅で、漠然としながらもそのように悟っていました。だから獣は、ここへ連れてきたのかもしれない、とも。


 時を共にした期間は短いものでしたが、獣はどこまでも気高く、心優しい存在です。少女としても、これ以上、獣が傷つくことは本意ではなかったのです。


 少女は懸命に自分自身を説得して、丘を下ります。村がどんどん迫るにつれて、心臓の鼓動が早まっていきます。両親や聖教師を思い出していたからです。


 近場に建つ、素朴な一軒家に近づきます。小刻みに震えつつも、明かりの漏れる扉をノックしました。とても軽い音です。今度は力を入れてドアを叩きました。


 すると、中から動く気配。そして、ゆっくりとドアが開かれ、一人の老婆が顔を出しました。


 どんぐり眼を飛び出さんばかりに、老婆は驚きます。こんな真夜中に小さな女の子。加えて汚れきったワンピースには、乾いた血がべっとりと付いていたからです。老婆の後ろから、ただならぬ事態に気付いた老爺が、玄関へと歩み寄ってきました。


 老婆は纏っていた肩掛けで、それはそれは慌てた様子で青白い肌を包みました。シワだらけの手で両頬を挟まれた少女は、老婆の胸に倒れ込み、そのまま力尽きました。


 そうしてこの日を境に、少女は老夫婦に介抱されました。怪我は大したことなかったのですが、長年の栄養不足がたたり、一時昏睡状態に陥っていたのです。それでも、夫婦の献身的な支えのおかげで、少女は生命を繋ぎ止めました。


 言葉を発せない少女を、老夫婦は邪険にすることなく、むしろ家族に迎え入れてくれました。夫婦のみならず、村の誰もが得体の知れぬ少女を温かく迎えてくれました。


 老夫婦と村人たちに見守られて数年後。少女は愛情の賜か、声を取り戻しました。その声は川のせせらぎのように清らかで、歌声はまるで、天使のごとく美しいものでした。


 健やかに育った少女は、やがて見目麗しい女性へと成長しました。そして、村の心優しい青年と添い遂げ、今も幸せに暮らしております。


 緑の神獣はというと。時折、二つの小さな影を伴って、少女を木陰から見守っているそうです。

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声なし少女と神獣奇譚 稲餅瓜 @uri_inamochi

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