グツグツと音を立てる鍋の中のシチューの、ほんのりと甘いミルクの匂いが部屋の空気を温かく変えていく。丸いテーブルの上には既に、バターで炒めた玉ねぎ入りのマッシュポテト、中にチーズを包み込んだ大きなオムレツ、庭のハーブがこんもり乗った大盛りのサラダが三人分並び、中央にはバスケットからいくつも顔を出したライ麦パンが存在感を主張するように机の上を大きく陣取っていた。ノアとウィリアムはシチューが出来き上がるのを待つそぶりも見せず、食べ始めている。

　エリゼは一度円を描くようにかき回してから火を止め、シチューを木製の杓子を使って、具材がたっぷりと入るように白い器へと掬ってやる。それからふたり分のなみなみと注がれた皿を持つと、二人の元へと運んでいく。

　まだ十分に飲み込まれていないのにも関わらず、次から次へと口にオムレツを運ぶノアの前に、熱い湯気の立ったシチューが置かれた。ノアはシチューを視界に入れると、すかさずスプーンを持つ手を伸ばす。その食いっぷりにエリゼは少しご機嫌になりつつ、ウィリアムの元にもシチューを置いてから自分の分を取りに、再びキッチンへと向かった。

　エリゼがようやく席につくと、二人はもう既に大半を平らげており、シチューで温まった身体を頬の赤らみが証明していた。ウィリアムは一口が大きく、またあまり咀嚼することなくすぐに飲み込むようにして食べるため、一見勢いよく食べるノアの方が速く見えるが、あまり大差はないのだ。そんないつもの二人と共に、エリゼも大きな口で食べ進める。

「………にしても、早いものね。ノアがもう15だなんて。

　少し前まで一人で立つことすら出来なかったじゃない。」

　エリゼは自分の分を二、三口味わうと、しみじみとした様子で語り始めた。

「いや、それは言い過ぎですよ」

　エリゼの発言に、すかさずノアが反応する。

「大人になると、あっという間に時間が過ぎていくのよ。

　せっかく15歳になったんだから、なにか欲しいものでも無いの？何でも買ってあげられる訳じゃないけど、少しくらいなら奮発するわよ。」

「………んーー、つってもなあ。特に何も思い浮かばねえや。」

「新しい靴なんかどう？」

「靴かぁ。別に今持ってるので充分だしなあ…。

　毎日こうやって適当に平和に過ごせてたら、何も要らねぇや。」

　二人の会話を無言で聞いていたウィリアムが、最後のシチューを口に運ぼうとしていた手を止める。

「お前なあ、そんな欲のない人間になってどうする。俺達がぽっくり死んだらお前は一人でここで生きることになるんだぞ。

　もっと野心を持って外の世界を見ろ。それからお前はもっと他の人間と関わった方がいい。俺が15の頃なんてな…」

「あーーもううるせぇって。それはもう聞き飽きたんだよ。

　つーか最近やたらと村のみんなに"いつ出るつもりなんだ"って聞かれんだけどさ、一体何なんだよ。そんなに悪いわけ、村に残るのが。

　そんな毎回言われたら俺が出て行くの待ってるように聞こえんだけど。」

　常々感じていた不満をぶつけるノアに、エリゼは手に口を当てて笑い声を零した。

「ふふっ、違うわよ。こんな田舎ではみんな大きくなったらすぐ出て行っちゃうから、いつまでも居てくれるノアが珍しいのよ。若くて力のあるノアに、むしろみんな助かってるほうよ。」

「いーや、前あそこの角の家のおっさんに言われた時はそんな感じじゃなかったな。もっとこう……まだ出て行かねぇのか？って言いたげな顔で、しつこく問い詰められましたからね。」

　ノアはその時の表情を再現しながら、身振り手振りで話していく。エリゼは笑いを堪えるのに必死で、スプーンを持つ手が止まってしまっている。

「ふっ……もう笑わせないで。確かにあそこのおじ様が言いそうなことではあるけれど。

　…でも、なんだか嬉しいわ。ノアがまだ居てくれるなんて。私達は居てくれる分にはとても助かるけれど、他にやりたい事が出来たらいつでも言いなさいね。ここに縛り付けられる理由なんて、一つもないんだから。」

　中央のサラダを自分の皿に盛りつつ、ウィリアムがエリゼに続ける。

「その通りだ。出たかったらいつでも言え。狭い世界で生きてると自分のことを知った気になってしまうが、実際は何も分かってないんだからな。」

　相変わらず自分の言いたい事だけ捲し立てるように言い放ち、満足気なウィリアム。そんな彼に辟易しつつ、受けた言葉を考えるように少し俯くと、左手に身に付けていた指輪がノアの視界に入った。

　ノアの人差し指には、ディテールの凝った黄金色の指輪が小さいながらもひときわ存在感を主張していた。中央にはまるで、若々しく萌える鮮やかな山々を、透き通るような群青色の空と共にそのまま閉じ込めたかのような、深く澄んだ色の石が嵌め込まれている。

　自分に残された唯一の出生の手掛かり。特にこれと言って信念も情熱もなく、日々淡々と生きていたノアであるが、こと自分の生まれについては常に疑問を抱き続けてきた。

　なぜ自分は産まれてすぐに棄てられたのか。どんな事情で、この山奥の小さな村に置いていったのか。

　生みの親に問い質したい事が山程あるが、15年もの間一度も顔を見せないというのが答えなようにも感じられた。

　指輪に嵌め込まれたエメラルドグリーンの石と、同じ色の瞳を持つノア。この辺りじゃまず見ない色をしているので、子供の頃はよく住民たちに物珍しそうに眼を観察されていた。

「あんたはここら辺りの子じゃないね。もっと遠い血が入ってる。」なんて事を常々言われるものだから、幼心にも疎外感を感じていた。そこに確かに居るはずなのに、そこにいないような浮遊感。自分のルーツが分からないというだけで、自分というものがなんだか空っぽな存在のようにも感じられた。

　産まれてすぐ棄てられたという事で時折哀れみの目で見られた事もあったが、特段悲観的にならずここまで育ってこれたのは、やはり指輪の存在が大きかった。両親の容姿も人となりも一切分からないが、指輪を一緒に置いていくという事は、少なくとも多少の想いは残したいと感じられたからだ。金の代わりだろうとの見方もあったが、エリゼには｢いつか会えた時の目印になるから｣と言われ、肌身離さず身に付けていた。

　少し指輪を見つめて一度瞬いてから顔を上げると、ノアはまた口を開いた。

「まぁ、みんな俺のために早く出ろって言ってくれてるってのは分かるけど、別に俺、ここが退屈って訳じゃねぇし…

　 さっきも言ったように、すぐに出て行くとかはまだ考えてねぇかな。教わりたい事もまだ沢山あるし。」

　エリゼは、頻りに親指で指輪を触るノアを微笑ましく見つめながら語りかける。

「ふふふ。そうね、教わりたいこと…例えば………口の横に卵が付いてる…とかね」

「………は？どこ！？こっち！？！」

「ふふ、全然違うわよ」

「ここだ、ここ」

　男性が自分の顔で卵が付いている場所を教えてやると、ノアは同じ位置にすかさず手を伸ばし口へと運ぶ。すっかり話に夢中になってしまっていたエリゼは、ようやく目の前のシチューに集中し始める。

　しかしその後も3人での会話は続いていき、エリゼの花の話や、尽きそうになってきている資材の話、そして今夜の料理の話など、話題は尽きないようである。食後はこうしてしばらく3人で顔を合わせて話すのがここでの日常となっている。

　小さな家から、楽しそうな声が漏れていく。暖かい陽射しの中、穏やかな時間だけがゆったりと流れる光景は、いつもと何も変わらない。

　平穏な暮らしに、温かく澄み切った空気。少し不便だが素朴なここでの生活をノアは気に入っていた。

　ノアが、この家で暮らすようになってから15年。

　出生を知る手がかりは、まだ一度も掴めていない。

　あるのは、ノアと同じ瞳の色を映す指輪。

　そして、生まれて間もない赤子が、冷たい雨の日に置き去りにされていたという事実だけ。