中野千里
A4サイズのクリアファイルに今日提出予定のプリントを入れる。昨日寝る直前まで宿題をして、終わった達成感と同時にベッドに潜り込んだので、朝起きた時には机の上に出しっぱなしになっていた。
プリントの右上に印刷された線の上に、2年5組 中野千里と書かれている。見慣れた右に傾いた文字、見慣れた特に珍しさもない名前。
小学生の頃は他の子よりも早くフルネームを漢字で書けるようになったのが嬉しかったけど、高学年になるころには簡単すぎて、難しい漢字を持ったクラスの子が羨ましかった。
今はテストの時に早めに名前を書いて問題に移れるから前ほど嫌いではない。
クリアファイルを学校用のリュックに入れる。
机の上に転がったままだったシャーペンや消しゴムを筆箱にしまい、同じくリュックの中に入れた。
他にも教科書とノートを数冊リュックにつめてチャックを閉める。
最近、最高気温が上がってきたとはいえ朝はまだ寒く金属製のドアノブが冷たかった。
『ちさと』と書かれたネームプレートを横目にし、廊下突き当りの階段を降りる。
一階の洗面所から漏れる光と蛇口から流れる水の音、父さんが洗面と髭剃りをしている。
リビングに入るとダイニングテーブルにはすでに朝ごはんの準備がされていた。
裏返しにされたお椀とお茶碗、おかずが並んだワンプレートに箸が三セット。
テーブルの真ん中にお味噌汁の入った小鍋が、鍋に対して大きすぎるコルクの鍋敷きの上に置かれている。家の鍋敷きはこれ一つしかないので仕方がない。
中野家には白米とお味噌汁は好きな量を本人がよそうというルールがある。
いつもの位置に置かれたお椀にお味噌汁を半分くらいまで注ぎ、蓋を鍋に被せる。
炊飯器はキッチンにあるのでお茶碗を持ってキッチンに行く。キッチンには洗い物をしている母さんがいた。
炊飯器を開けると、もわっとした水蒸気の先に炊かれたばかりの白米が粒を立てて敷き詰まっていた。
お茶碗を持って席に着くと、ちょうど父さんがリビングに入って来た。髭がなく、さっぱりとした顔とは対照的にまだ寝ぐせのついた頭と寝巻のスウェットがだらしなく見える。
白米がのったお茶碗を片手に持つ父さんの後ろから洗い物を終えた母さんもキッチンから出てきた。
手を合わせていただきますと挨拶をする。右手に箸、左手にお茶碗をとる。
プレートに乗ったおかずは昨日の夜ご飯の残りの野菜炒めと肉じゃが、ただし汁なし。あと目玉焼きが一つ。
和食朝ごはんの定番、焼鮭や卵焼きなんてものは中野家では出ない。朝からそんなめんどくさい料理ができるわけないと前に母さんが言っていた。
私の目の前に母さん、右前に父さんが座り、同じように朝ごはんを食べ始めた。特に会話はない。たまに今日は気温が高いみたいと母さんがニュース番組の情報を伝える程度しかない。
朝ごはんが終わり食器を流しに置く。
二階へ階段を駆け上がり、身支度を整える。朝一で準備したリュックを背負って、また階段を下りる。リビングを覗くと会社へ行く準備のためにせわしなく動いている母さんがいた。
いってきまーすと声をかけた。声に反応して母さんがこっちを向いた気配を感じたけど無視した。
家を出るときに声をかけないと、いつ家を出たのか分からないじゃないと怒られてから、行ってきますだけ言うようにしていた。普段は優しい母さんは怒る時だけヒステリーのきらいがある。
怒らせるとうるさくて仕方ない。仕方がないから声をかけているだけで、別に見送られたいわけじゃない。
玄関を出るとき、スーツを着た父さんと時間が被った。私の高校と父さんの会社は真反対にあるから家を出てすぐに分かれた。
最寄りの駅から電車に揺られて数駅。停車するごとに同じ制服を着た学生が増えていく。
高校の最寄り駅で下車して人の流れに乗って、途中でコンビニによって、また人波に乗って校門を抜ける。
南棟三階に二年五組の教室がある。私の席は教卓の前の列の後ろから三列目。
先生に目を付けられないように教科書とノートを広げて、ぼんやりと前方を眺めて授業をやり過ごす。勉強はやってもできないと諦めて、進級できる成績が取れればいいやと割り切っている。
五十五分を何もしないのは暇すぎるから、先生が黒板に書く単語だけノートに書き取る。文字が右に傾いた。
「昨日宿題で出したプリントを回収するから前送れー」
先生が声をかけると後ろからプリントの束が送られてくる。
クリアファイルからプリントを取り出し、束に重ねて前に送る。
教卓の前で六列分のプリント束を一つに重ねる先生。まとめ終わると次は新しいプリントを各列に配り始めた。
前からプリント束が送られてきたから、一枚とって残りを後ろに回す。
「今日も宿題出すぞー、三十分あれば終わるから忘れずにやってこいよ」
今回は早めに終わるといいな。プリントをクリアファイルに閉まった。
四つの授業を受けると午前の授業が終わる。
黒板の上に設置された四角いスピーカーからチャイムが流れる。
キーンコーンカーンコーン。ほとんどの人が知っているあのメロディー。
昼休み開始のチャイムと同時にうるさくなる教室。
コンビニで買ったメロンパンを片手に窓際の列の
藤咲リネカはクラスでも特殊な生徒である。
一番の特徴はその容姿である。きれいなシルバーブロンドの長髪がまず目につく。
この高校の校則には制服の改造禁止、ピアス禁止に続いて髪染め禁止がある。
それでもおしゃれしたい人はいて、大抵は濃い茶髪に染める。ここまで明るく白い髪をもつ人はまずいない。
私はリネカの色素の薄い髪を金ではなく白と表現する。金ではゴージャスすぎてリネカの雰囲気に合わない。決して派手さはない素の美しさには白が似合う。
当の本人は周りのうるささを気にせず、椅子に座ったまま動かない。両肘を机について、色の白く長い手の指を絡めている。
リネカの周りだけ時が止まっているように動かない。彼女の白さと相まって美術室に置かれている石膏像のようだ。
一歩近づくと、彼女の持つ日本人離れした顔が鮮明になる。はっきりしている目鼻立ちが美しい横顔が後ろの窓から差し込む陽光に照らされて、いつもよりはっきりと浮かび上がる。
光に透ける白髪がベールのようにだった。
また一歩近づくと、リネカが目を閉じていたことに気づく。
また一歩、一歩近づき、ついに彼女の隣に立つ。
私に気がついたリネカがそっと自身の細長い指をほどき、目を開ける。長く均一に広がるまつ毛が緩やかに上に上がる。
そのまま顔が流れるようにこちらに向けられる。茶色の瞳に見つめられてドキッとした。大きな目は光をいっぱい入れるから、光が反射する瞳は宝石のように輝いて見える。
キラキラと光る表面の後ろには意志の揺るがない強さが感じられる。決して2次元ではない3次元、レイヤーを何枚も重ねたような奥深さ。リネカの魅力である。
コーラルレッドの唇が動く。口角をあげて微笑をたたえる。今度は絵画のようだ。
「千里さんに聞きたいことがあります」
またか、と心の中で溜息を一つ。黙っていれば美人なのに、リネカにはお喋りな口がついている。
私はいつもと同じく、リネカの前の席の
明津は昼休み開始と同時にクラスの男子と購買に走って行ったのを見た。あと三十分は戻ってこないだろうから気にせず椅子を借りられる。
リネカは私が椅子に座ったのを確認して話し始める。
私は自分を普通と評価する。
珍しさのない名前、共働きの家庭。勉強はできない。容姿も似た人はすぐ見つかると思う。趣味もない。良くも悪くも目立たない。
そんな私の唯一の普通でない部分は彼女の存在だ。
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