第31話 進むべき座標
その日、エスタディオ・デル・ソルには、妙な緊張感が漂っていた。
快晴の青空の下、レガレスは調整のためのクローズドトレーニングを行っていたが、クラブの広報スタッフは例外的に“ある人物”のためにスタンド席の鍵を開けていた。
マリオ・カサール。
欧州中の代理人が恐れる、サッカー界の“死神”。
選手を見る目は正確無比、彼に見限られた選手は、高額契約を失い、二度とスポットライトに戻ってこれないとさえ言われている。
彼の視線は、グラウンド上のヴィセンテに鋭く向けられていた。
「君がわざわざ見せたかったのはこれか。
確かに……素材としては面白い。
だが……まだ"己”という輪郭がないな」
隣にはベッブ――かつてヨハンと戦った、戦術と育成に革命を起こしつつある男。
今ではヨーロッパ中のユース指導者に“最も読まれている人物”として知られるが、指導の現場に姿を見せることは稀だった。
「君が言うなら確かだね。
彼は伸びるさ。
ただし……中村が邪魔をしなければ、ね」
マリオの皮肉に、ベッブは珍しく目を細める。
「いや、むしろ中村が“導く側”に立てるかどうか。…それが今日の焦点だよ」
⸻
〜練習場にて〜
この日の紅白戦は、いつもと違うフォーメーションで行われた。
中村とリューラがダブル司令塔として同時起用されたのだ。
リューラは加入したばかりでありながら、ヨハンにとっては“戦術的な記号”として特別な存在だった。ミッシェルに憧れる中村とは違い、リューラは「戦術を壊すために戦術を知る男」であり、チームのリズムをあえて乱し、そこから“ズレ”を生むことを好んでいた。
中村が「均衡を保つ者」なら、リューラは「均衡を崩す者」であった。
そして――そこに割って入ろうとする者が一人。
ヴィセンテ。18歳、左利きのファンタジスタ候補。
彼はここ数週間、中村と個別トレーニングを重ね、ピッチでの“意思疎通”は抜群に見えた。
だがこの日の彼は、何かが違っていた。
⸻
〜紅白戦〜
「そこじゃない!」
ヴィセンテが中村に短く声を荒げる。
直前のプレー、センターサークルで中村からのワンタッチパスを受けたヴィセンテは、意図とズレたボールに一瞬足が止まってしまった。
「(なんであのパスを……)」
顔を上げたヴィセンテの視線の先では、リューラが既にワンステップ先のパスコースを開けている。中村のパスは“リューラを動かす”ためのものであり、ヴィセンテのためのものではなかったのだ。
――ここには俺の居場所はないのか?
苛立ちがつのる。プレーが雑になる。
一度は息を合わせた中村との連携もズレ始め、リューラのアンチプレースタイルにも飲み込まれていく。
後半15分、ヨハンは静かにヴィセンテを呼び戻した。
その時、ヴィセンテは自分でも気づかぬうちに涙を堪えていた。
⸻
〜全体練習後〜
「君は悪くないよ、ヴィセンテ」
ヨハンは声をかける。
「だが、君は“自分の役割”と“自分の理想”が混在している。
中村とプレーが合うのは、君が合わせに行っているからだ。
だが、リューラと合わせるには――“ズレに対して開く覚悟”がいる」
「ズレに……?」
「そう。ズレた瞬間に、自分を消すか、出すか。
君はそれを、まだ判断できないだけ。だから今はそれでいい」
ヴィセンテは、うつむきながらもかすかに頷いた。
ベンチのすぐ後ろ、スタンド最前列ではマリオが時計を確認し、静かに立ち上がる。
「成長を見届ける価値は、あるな……」
彼はベッブにだけ軽く頷き、背を向けた。
その数分後――ヨハンの采配により、リューラと中村の共存による中央突破が炸裂する。
中村がトップ下に絞り、リューラがアンカー気味に下がる。その“縦の構図”で、リューラが敵のサイドMFを一瞬外し、中央へスルーパス。中村が左足でトラップ、ワンタッチで逆サイドへ展開。
相手のラインがスライドしきる前に、裏へ飛び出したジョナタンがクロス。
それを走り込んだカルロスが叩き込んだ。
1-0。
ヨハンは顎に手をやったまま、何も言わない。
だがその目は、確かに満足気に微笑んでいた。
⸻
〜夕方〜
練習終了後、誰よりも遅くまで居残ったのはヴィセンテだった。
ミニゲームの後、中村が黙って彼にパス練習を持ちかけていた。
「さっきの、すまん。お前に出すっていう選択肢もあった」
「いや……中村さんの意図は分かってました。俺が勝手に焦っただけで」
「けどな――悔しい気持ちって、すげえ武器になるぞ。
俺もそれで、ずっとやってきたから」
中村は言う。
その声がやけに遠く感じた。
ヴィセンテは、明日からまた走るつもりだった。
自分の“居場所”を、自分で見つけるために。
そしてその姿を、スタンド最上段の誰かが見つめていた。
ベッブも、ヨハンも、そしてマリオも――すべては、動き出していた。
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