第37話 こんな終わり方があるか?

 そろそろ午前三時を回った頃だろうか。三澄は未だ寝付けずにいた。

 いや、そもそも今日は眠ることができないと、始めから分かっていた。

 眠気はある。体は睡眠を欲している。だが、精神が拒んでいるのだ。


 一度はベッドに入った三澄だったが、諦めた今は、床に座りベッドの縁に背を預けながらスマホをポチポチ。某有名ゲームをインストールしてみたのだが、これがなかなか気持ちいいくらい時間を忘れさせてくれる。

 画面内にて、3Dモデリングされたキャラに剣を振らせていると、下の階から何やら振動が伝わってきた。おそらくは玄関扉が開閉したのだ。この家のは、防犯のためなのか少々頑丈な造りをしている。


「……」


 施錠はしていたはずだ。

 三澄は耳からイヤホンを外して、そのイヤホンが付いたままのスマホをまとめてベッドに投げると、立ち上がって部屋から出た。


「ん……?」


 隣の部屋のドアが開いている。若菜の部屋だ。

 若菜の姿は、夕食後の一件以来見ていない。何度かドアをノックして呼び掛けてはみたものの返事はなく、押し入ることも憚られたのだ。


――この隙に、ちょっとだけ覗いてみちゃダメか?


 プライバシーの観点から、本来ならば推奨されない行為である。だがこの状況ならば、事故として許され得るのではなかろうか。

 と言うわけで、三澄は一度中を覗いてみることにした。先に声を掛けておくべきか、などと逡巡しながら、恐る恐る……。


 結論から先に言うと、室内はもぬけの殻だった。

 目の前には、七畳程度の空間。最初からあったベッドやタンスはそのまま。空っぽの本棚は物悲しさがなくもないが、部屋の一辺に張り付くように据えられた机の、その上にある化粧品や櫛などの小物が、ここで誰かが生活していることを感じさせる。

 以前の、ピッカピカのモデルルームよりもハリボテみたいな場所とは大違いだ。


 まだ、これから。そう、これからなのだ。

 三澄は少しだけ弱った心を奮い立たせて、階段を下る。それにしても、こんな夜更けに部屋にいないとなると、トイレか、小腹が空いてもしゃもしゃやりたくなったか……。

 逸る気持ちを唾と一緒に飲み込み、ひとまず玄関までやってくると、本当に玄関の鍵が開いていた。

 驚き半分、納得半分。

 侵入者の存在が確定したわけではない。そもそも、そんな者はまずいないだろうことは分かっている。玄関扉から堂々と入ってくる泥棒など、どれだけの大人物なのか。

 さて、若菜はどこだろう。歩き出す。

 ただの早とちりで家中探し回った時の記憶が蘇る。三澄は嘲弄の笑みを浮かべて、視線を右へ左へ。きっとどこかにいる。今回もまた、心配症な自分が馬鹿だったで終わる話のはずだ。

 意識せず、繰る足が早まる。気付けば、心臓が早鐘を打っていた。

 家中を駆けまわる。

 若菜が、いない。




 若菜を探すため、三澄は雨の中の暗い住宅街を、傘も持たず走っていた。

 家々は暗く静まり返り、路肩に点在する街灯と、家から持ち出した懐中電灯だけが頼り。

 人通りは当然なく、アスファルトを打つ雨の音や、側溝を流れる水の音で、一帯が満たされている。


「なんでっ、どこにもっ、いねぇんだよ――!」


 湿り、目を覆うように垂れ落ちてくる髪を乱暴にかき上げる。

 どうして、若菜はいなくなってしまったのか。

 どうして、もっと若菜のことを気にしてやれなかったのか。

 今回の顔合わせ。何事もなく終わるわけがないことは、最初から分かっていた。だから、その後のケアが何より重要だったのだ。

 にも拘わらず、若菜の顔を確認することもなく、部屋の外から呼び掛けただけで、何かをした気になっていた。役割を全うした気になっていた。

 あまつさえ、ここ最近見向きもしなくなったゲームになんて手を出して。


 後悔は濁流の如く。自分の馬鹿さ加減にはほとほと愛想が尽きた。もはや若菜の無事な姿をこの目に焼き付けるまでは、嵐になろうと帰るわけにはいかない。

 そんな覚悟の甲斐あってか、家を出てから三十分ほどで若菜は見つかった。

 あの日、初めて出会った公園のベンチに、若菜はいた。視界不良と幽霊並の存在感の希薄さで、危うく見逃すところだった。彼女の灰色のスウェットも、保護色みたくなっていて一役買っていた。

 だが、ホッと息をつくのも束の間、若菜が今まさに何をしようとしているのかを理解して、三澄は息を飲んだ。


「止めろ――!」


 声を張り上げ、駆け出す。

 全身が沸騰しそうだった。

 若菜が、自分の喉元にナイフを突き立てようとしている。


「――っ、来ないで!」


 三澄の接近に気付いた若菜が叫んだ。ナイフを構えたまま、まるで自分を人質にとるようにこちらを睨んでくる。

 止まるしかない。三澄は若菜の座るベンチより五メートルほど手前で、たたらを踏むことになった。


「なん……で。何……してんだよ、止めろよ、止めてくれよ。若菜、頼むよ……」


 上手く舌が回らない。自分が何を言っているのかも、よく分からない。


「ごめんなさい。でも、もういいんです。私のことは忘れてください。お互いのためにも、それが一番です。昨日のことで、あなたも分かったんじゃないですか?」


 滴る雨水のせいか、若菜は泣いているようにも見える。だが、きっと勘違い。都合のいい妄想だ。死に瀕して、彼女もまた自分と同じように悲しみで一杯である、なんて、本当は死にたくないはず、なんて、三澄の願望でしかない。

 だって今の若菜の顔は、あまりにも晴れやかだ。この世のあらゆる抑圧から解放されたかのような、見たことのない顔をしている。


「……分かんねぇよ。何が一番とか、そんなの、俺には分かんねぇ」


 我ながら貧弱な抵抗だ。もう少し何かなかったのか。


「そうですか。分からないなら、仕方ないです。でも、律さんや美月さんもそう思ってると思いますよ。私と知り合う前の日常に戻るのが一番だって。だからもういいんです。死ぬ瞬間を誰かに見られるのも恥ずかしいですから――」


 死ぬ。その言葉を聞いて、三澄は一瞬呼吸が出来なくなった。


「だからあなたはもう帰ってください。居るべき場所、居るべき人たちの中に戻ってください。それにほら、いつまでも雨にあたってると、風邪ひいてしまいますよ? 今日も学校あるんですよね?」

「待ってくれよ。なんでそんな……」


 今のこの状況が、まるで日常の延長線にあるみたいに平然と話せるのか。


「考え直すことは出来ないのかよ」


 彼女の自殺を止める権利が自分にあるのか。

 自殺は絶対悪。そう言い切れるほど、三澄は無垢ではない。


「もう、決めたんです」


 またもあっけらかんと言う。


「……」


 噛み締めた歯が軋んだ。

 両足も口も、縫い付けられたみたいに動かない。

 彼女のためを思うならどうすべきか。自分はどうしたいのか。

 彼女を優先するべきなのか。自分を優先していいのか。

 そうやって三澄が迷っていると、若菜が呆れたような顔つきになる。


「分かりました。きっとあまり気分のいいものではないと思いますけど、私もそろそろ冷えてきましたから、もう――」


 ナイフを握る若菜の手に力が入る。若菜の視線が、三澄から自らの握るナイフに移り、遂には瞼によって遮られる。


「まっ――!」


 今までの思考が全て吹き飛んだ。あれだけ動こうとしなかった足が、今はもう意識の管理外で軽やかに地を蹴っている。

 間に合え。たったそれだけの願いに、三澄の頭の中は染め上がっていた。


 五メートルの間隙。


 次の瞬間には、ぽたり、ぽたりと若菜の服に血が落ちていた。濡れそぼり、表面に水が浮くようになったスウェットに血が滲むことはなく、雨で瞬時に薄まり、流れていく。

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