第36話 傷跡を掻っ捌いて、手を突っ込んで、掻き回して

 それから、美月の尽力もあって会は比較的和やかな雰囲気で進んだ。


「男子禁制」


 なんて言って三澄を追いやり、女子三人で若菜の部屋に閉じこもり始めた時は、流石にハラハラしたものだったが、一時間ほどして、三澄の愚痴を言い合いながら出てきた。

 三澄に聞かせるための恣意的犯行なのは明らかで、「人の悪口で仲良くなってんじゃねーよ」と文句が出かかったが、若菜の表情が苦笑ではあったが柔らかだったので、我慢することにした。彼女の自然な笑みを見たのは、初めてかもしれない。

 その後の夕食は、予定通り四人で摂った。内容は、アボカドと生ハムを添えたカルボナーラにティラミス。材料調達を除き、準備段階から仕上げまで、全て若菜のお手製だ。

 チーズ尽くしであったり、全体的に洒落た雰囲気があったりするのは、客である女子二人の好みを反映した結果。テーブルに並べられたそれらを見た時、そして当然、口にした時には、二人ともかなりの興奮具合であった。


 だが。

 このタイミングなら。食事中、三澄は何度もそう感じながら、ついぞ本題を切り出すことはなく。


「また雨降り出したっぽい」


 夕食を摂り終わり、若菜以外の三人での後片付けもそろそろ終了というところ、キッチン横の小窓を覗いていた美月がそう呟くと、律が少しの間思案顔を浮かべた。


「ねぇ、三澄。残りは任せちゃっていい?」


 タオルで手を拭きながら、律が尋ねてくる。

 午後八時前、女子高校生の帰宅時間としてはまだ健全な範囲だろう。だが、塾に通っているわけでもないのに九時、十時ともなれば話は変わってくる。引き延しの限界は近く、今の律の言葉すら拒絶できる材料がない。


「三澄?」


 もう、言うしかない。

 三澄は意を決し、律と美月を見据えた。


「その前に、二人ともちょっといいか?」


 律と美月の意識が、次ぐ三澄の言葉に向く。


「一個だけ、言ってなかったことがある」


 ソファの方で、若菜の肩が跳ねた。


「言ってなかったこと?」

「若菜についてだ」


 律の疑問にきっぱりと答え、一旦間を取る。どういう表現を用いるのが、彼女らの動揺を最も抑えられるか。ぐるぐるぐるぐる、三澄の脳内でいくつものセリフが巡る。


「大したことじゃないんだけどな。実は……」


 固唾を飲む若菜の気配を感じながら、三澄は決意を固めた。


「実は、若菜は吸血種なんだ」


 二人の表情が空白になる。


「正確にはハーフなんだけどな。父親の方が吸血種で母親の方は――」

「何……言ってるの?」


 矢継ぎ早に重ねた三澄の声を、律が遮った。美月も続く。


「うんうん、そうだよ。三澄、どうしちゃったの? いっつもバカなこととかテキトーなこととかポンポン言うけど、趣味の悪い冗談だけは言わなかったよね?」


 二人の困惑した視線が突き刺さった。美月の方はまだ半笑いだが、律の方は、その目の奥に何か黒く重い感情が見え隠れしている。


「冗談なんかじゃない。ホントの事なんだ」


 三澄がはっきりそう言うと、二人とも押し黙って、三澄の傍まで来ていた若菜を見た。

 二人から、懐疑やら恐怖やらが幾重にもなった視線を向けられた若菜は、口を噤んだまま、三澄のシャツの左袖を握り締めて俯く。それはもう、肯定の意を示すのと同義で。

 律と美月の顔が、もう一段歪んだ。


「若菜の両親に……その、不幸があってな。真島さんに便宜を図ってもらって、一緒に住むことになったんだ」


 今までぼかしていた経緯の部分を三澄が話す。詳細とはとても言い難いが、要点は伝わっただろう。若菜の滞在に関して、真島、つまり警察組織のお墨付きがあるため、法的に何ら問題がないのだということは、特に。

 だから、自分たちは間違っていないのだと、納得はしてもらえないまでも、理解はしてもらえると思っていた。


「何、それ」


 だが、律の発した声はぞっとするほど冷たい。


「不幸があった。……だから、何?」

「だから何って……」

「同情でも誘おうと思ったの? あの食事も、そもそもこの顔合わせも、何もかもそういうこと?」


 的確に図星をさされ、三澄は「……ああ」と呻くようにしか返事ができない。


「何でよ。どうしてそこまでするの? 吸血鬼なんでしょ?」

「吸血種だとかそういうのは関係ないだろ」

「関係ないわけない!」


 看過し難い文言を聞いた三澄の苛立ちを、律の叫びが上から叩き潰す。


「関係ないなんて、そんなの絶対に有り得ない! ホントにどうしちゃったの? 三澄、自分が何を言ってるのか分かってる? あなたの大切な人たちが吸血鬼のせいでどうなったのか、忘れたわけじゃないでしょ?」

「だからそれは……」


 止めろ、止めてくれ……。握られた心臓を無造作に揺すられているような気がして、吐き気がする。口が上手く回らない。


「だからそれは? 三澄自身のことだから、彼女には関係ないって? 確かにそうよ、そうだけど……、でもっ!」


 パンパンに膨らんだ風船が、更に膨張しようとするかのような、終わりの訪れる予感があった。強い憎しみに支配された律の瞳からは、今にも涙が零れそう。

 止めなければ。その先に行かせてはならない。

 でも、無理だった。三澄が制止の声を上げる間もなく、律はその決定的な一言を口にする。


「三澄のお父さんとお母さんは、吸血鬼に殺されたのよ⁉」


 寒気がする。地震なんて起きていないのに、足元がぐらぐらと覚束ない。

 律の激情は雪崩の如く。未だ留まる所を知らないようだが、今の三澄の頭には全く頭に入って来なかった。

 両親の死。三澄がずっと目を逸らして、日常から遠ざけて、思考から排除してきた事実。それを掘り返された今、三澄はかつてのように、ただの木偶に成り下がるだけだ。


「……?」


 そんな中、左腕に生まれた違和感で、三澄の意識が浮上した。見れば、若菜が顔を上げ、驚愕に見開かれた目をこちらに向けている。若菜に握られていたはずのシャツの左袖には、もう皺だけしか残っていない。

 それはどういう反応なのか。頭が回らない三澄には、若菜をボーっと見つめ返すことしかできず。

 そんな三澄の姿をどう捉えたのか、若菜は項垂れると、


「そんなのって、ない……」


 掠れた声でそう呟き、ふらふらとリビングを出ていってしまう。

 どこか異様な若菜の後ろ姿に、それまで感情の赴くまま声を荒げていた律も、気勢が削がれたようだった。落とした視線が、戸惑いに揺れている。

 それでも律は、自身の迷いを振り払うように三澄に向き直った。


「三澄、お願いだから考え直して。吸血鬼に関われば、きっとまた不幸になる。やっと少しずつ元に戻ってきたっていうのに――」


 そうして、若菜の異変、その一部始終がなかったかのように、再び律の説得が始まる、かに思われたが。


「……ごめん、やっぱり今日はもう帰るわね」


 悔恨と当惑、その他三澄にも窺い知れない複雑な感情に押し負けたと言わんばかりに、律はポツリと苦しげに呟いた。


「え? ちょっ、りっちゃんっ」


 美月の気遣わしげな視線が、律と三澄とを行き来する。律はそれに取り合うことなく、一人ソファに向かい、鞄を拾い上げて左肩に掛けた。そのまま、すたすたリビングを出ていく。まるでこちらを意識的に無視したかのような所作だ。

 最後まで戸惑っていた美月だったが、靴を履く音がし出したあたりで諦めがついたらしい。追い立てられるように鞄を持って、玄関へ駆けていった。

 玄関扉が閉じるけたたましい音と同時に、三澄はその場にへたり込んだ。動悸が酷い。息が切れる。

 しばらくは立ち上がれそうになかった。

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