42.泣き叫ばないのか?
「大変だ! 兄君が襲われた」
「なんという! 非道な!!」
知らない間に騎士達の間で、英雄像が出来上がっていく。聖女クナウティアを守ろうとして、魔王の攻撃を喰らったと勘違いされた。それを否定する時間も余裕もないセージは、抜いた剣を床に刺し、立ち上がろうと手をかける。
嘔吐く勢いで、手から力が抜けて刃が手のひらを滑った。走るちりちりした痛みと同時に、左手で顔を覆うが間に合わず吐く。
そこで喉に詰まったパンにより、セージは血塗れの嘔吐の海に倒れ込んだ。
「え? いや、あの……えっと、聖女は預かったぞ!」
何もしてないのに血と汚物に塗れて転がる青年に焦るものの、魔王シオンは慌てて口上を述べる。これは魔王として君臨する彼のお約束なのだ。言い切った途端、騎士達から憎悪の目を向けられた。
存外これは心地よい。悪い存在として君臨した彼の自尊心は、かなり満たされた。そのため口元に笑みを浮かべ、脇に抱えた聖女を戦利品として空に舞い上がる。
「聖女様が拐われた!」
「なんということだっ! 救出を急げ」
騒ぎを背に受け、非常に気分が良かった。騎士や兵士も聖女を気にして矢を射ることも出来ない。周囲を舞う魔族が歓声をあげた。いつも勇者やら賢者やら、強い連中と戦って負けた過去はなんだったのか。もっと早く攻め込めば良かったのだ。
テラスから飛び出した空は晴れており、上空の雲の流れは緩やかだった。散歩には最高の日和よ、とご機嫌で広げた翼で空を飛ぶ。魔力で飛ぶため翼は必要ないのだが、広げていると風を受けて姿勢が安定した。手荷物があるので気を使ったシオンだが、聖女が妙に静かなことが気になる。
拐われた婦女子は泣き叫ぶものではないのか?
今までと違う反応を見せる聖女は、顔を両手で押さえて小刻みに震えていた。女神に選ばれたのなら16歳の筈なのだが、妙に幼く見える。だが騎士やあの部屋の青年は彼女を聖女と……もしや替え玉か?
首をかしげて覗き込んだ瞬間、クナウティアは盛大に吐き戻した。空中を飛ぶため、きらきらした大量の未消化の食べ物が光を弾きながら、虹のように地面に降り注ぐ。
「え?」
「陛下、これは……」
「まだ何もしていないんだが」
困惑顔のネリネに慌てて言い訳してしまった。魔王として情けないが、本当に何もしていないのだ。疑いの眼差しは冤罪だった。
「う゛っ…」
また嘔吐くクナウティアは、一通り吐きだすとぐったりと力を抜く。顔を覗き込んだ魔王の腕の角度が、いい具合に吐き気を後押ししてくれた。食べ過ぎた苦しさから解放され、涼しい風に吹かれたクナウティアはそのまま眠りにつく。嘔吐は意外と体力を消耗するのだ。
「聖女がっ、死んだ?!」
「まだ生きてるぞ! 急げ」
速度をあげた魔族の一団は、大騒ぎしながら森の奥にある城へ向かう。人間の敵と言われるわりに、少女一人の容態に混乱するあたり……意外と人のいい集団であった。
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