第十四夜 もう一つの翳

「沢崎さんが、アタシを呼んだんだ」

 自分が想像していた通りの展開にもかかわらず、晴矢は香織の返事に狼狽し、声を荒げてしまった。


「なんでだよ! あんな台風の中、どんな用事があったって言うんだ?」

「だから、借りた本を…」

「ふざけんな! それはウソだろ?」

 香織は答えない。


「香織、お前何か弱みでも握られてんのか?」

「全然」

「じゃあ何で?」

「ひとみ先生の話」

「ひとみ先生がどうした」

「ひとみ先生の事で話したいことがあるから、図書室で待っててって」

「沢崎あいつ、俺の事が嫌いだってさ」

「え!?どういう…」

「どうもこうもない。香織といつも一緒に居る俺の事が嫌いなんだと。」

 晴矢の顔は、香織にはきっと怖かっただろう。

 

 しかし晴矢は続けた。

「お前にはピアノの見込みがあったのに、あの日以来、俺たちが一緒にいるようになってからピアノの上達が遅くなったって」

「そんなの…違うよ」

「俺にはピアノの事はさっぱり分からない。でも、沢崎あいつは俺たちが原因だと決めつけてやがる」

「アタシ、沢崎さんに…『違う』って言うわよ」

「まあ、無駄だろ。俺がそう言わせたって、ヒネくれた解釈するタイプだアレは」

「じゃあどうすれば?」


 晴矢はもう一つの疑問について聞いた。

 少し勇気が必要だったが。


「お前は何もしなくてもいいよ。それよりさ、香織、沢崎あいつに、その、なんかされたことないか?」

「なんか、って、何よ?」

「なんかって、その、」

「ああ、性的なヤツ?」

 香織は頭が良いだけじゃなくて、図星の答えを直球で投げ返してくる。


「お、おう、その、性的ななんとかだ」

 俺は眼を白黒させて辛うじて言った。


 二人は少し沈黙。


 そして香織は口を再び開いた。


「無かったわ」

「そ、そうか」

 晴矢がその一言にホッとする束の間もなく香織は言った。 


「沢崎さんとは、ね」

「どう言うことだ?」

「ひとみ先生からは、髪の毛を触られたり、頸うなじにキスをされたりしたわ」

「おい、それって…」

「それだけじゃない。でもこれ以上は、晴矢にも言えないわ」

 晴矢がそれ以上の事を聞けるはずもない。


「アタシがピアノ教室を楽しめなくなったのは、あの日の事だけじゃなくて、ひとみ先生の事があったからなのよ」

「沢崎あいつは何て言ってお前に学校まで来いって言ったんだ?」

「…ひとみ先生からアタシに手紙があるから渡したいって…」

「あんな台風の中、おかしいとは思わなかったのか?」

「ちょっとは思ったわよ。でも、ひとみ先生の名前を出されると私ちょっと思考が止まっちゃうのよね」

「で、図書室に閉じ込められて沢崎があいつ何をしようとしているのか分からなくなって怖くなって俺に電話をかけてきた、そんな感じか」

「ごめんね」

「謝らなくてもいいよ。でも、何故俺が図書室の鍵を壊して香織を助けたあと、沢崎あいつに文句言わなかったじゃないか。それは何で?」

「その代わり『お酒飲んでる』って言ったじゃない。あの時点でこの話をするつもりはなかったわ」

「まあ、そうだよな」

 本人の口から聞くまで、沢崎あいつが香織に何をするつもりだったかなんて分からないって事だけは理解できる。


「晴矢、この事、誰にも言わないで」

「勿論そのつもりだ。でも、これ以上お前に何かあったら嫌だからな。もう、沢崎あいつに呼び出されたからって行くなよ」


「ええ、分かったわ」

 香織は、あの日のことに加えて沢崎の妻の事でも翳を隠して生きてきたのだ。


 この事実はには少し重荷に感じられた。


 しかし、香織は独りでずっとそれを背負って生きてきたんだと思うと、晴矢は何もできない自分を呪った。

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