第8話 人生の熱意
初来店なのは聡も変わらない。が、そこは慣れたもので何ら気を張っていない聡と比べ、提案者の末田は目を泳がせている。ここは末田が愛した未成熟な女たちを拵えた花園にはない、直截な刺激で溢れていた。夜の蝶の登場に末田のグラスは震えたが、蛹たちの相手では到底考えられないことだった。彼は買春した女性を想った。変わらず震えたが、不思議と心が落ち着く気がした。
「あら、先生方お久しぶりです。いつも娘がお世話になっています」
場に似合わぬ言葉を発しながら愛生が現れた。大きく胸元が開いたミントグリーンのドレスに身を包み、ダークブラウンに染めた髪はゆるく巻かれ淡いイエローのコームでまとめられている。煌びやかな姿に末田の目は眩んでいた。
「お……お久しぶりです飯島さん」
「ええ、末田さん。けど、ここでは葵って読んでくださいね」
末田に微笑みを投げた後、愛生は視線を流しながら聡に目配せた。それを、聡は反らした。
末田には愛生が、聡には若い娘が付いた。娘は入店から日が浅いようで会話にぎこちなさが残っており聡の方が気を揉んだが、聡が積極的に話を振れば彼が若いということもあり簡単に懐中を開いた。時折、傍らふたりの話に耳を傾けると、愛生がうまく手綱を握っているようで話が弾んでいる。酒のせいか、末田も徐々に落ち着いて来たようだったが、その瞳は溺れているように見えた。
「ね、聡さんって、葵さんの彼氏さん?」
若い娘が耳元でそっと尋ねる。値踏みするように聡を見つめた後に視線を流して傍らのふたり、殊に末田をまんじりと眺め冷やかすように頬を上気させた。この状況を把握した上で愉しんでいる娘の無粋な態度に聡は苛立ちを覚えた。違うよ、俺は彼女の娘の担任だと聡が否定すると、ふふ、と笑みを零す。
「それで、ぼくは昨年度の担任」と末田が会話に混ざる。聡は内心慌てたがどうやらすべて聴こえていたわけではないらしい。「と言っても、ぼくはもう教師じゃないんだけどね」
「どうしたの、末田さん。辞めちゃったの?」
愛生は保護者たちの集まりから縁遠いため未だ事情を知らない。安堵した末田は含みを持たせた表情で応えた。
「……そうですか。長い間お疲れさまでした」
愛生と末田は再びグラスを重ねて小気味良い透明な音を響かせる。一口含むと愛生は、
「それで、新しい赴任先は決まっているの?」
末田には硝子の反響音が特別な音色に聴こえたらしく、その波紋広がるトニックを舌先で探るように味わいながら、努めて軽やかに答える。
「いいえ、決まってないんです。教師はもうおしまいです」
「あら、もったいない。末田さん、良い先生だったのに」
末田はそっとグラスを置き目を伏せた。今回の顛末に罪悪感を抱いている末田にとって愛生からの称賛はやや心苦しいだろうなどと、同僚として末田さんはどんな先生だったのですかと底意の知れた目を爛と訊ねる娘に、良い先生だったよと答えながら聡は考えていた。
「末田は良い教師だったよ。教育熱心でどんな子にも優しくて人望も厚かった。特に、いじめとか、そういう問題に関しては熱心だったよな」
「そうだったんですね。例えば、何かあったんですか?」と愛生。
「そうですね……。一昨年の今くらいの時期だったと思うんですけど。今くらいの時期って、いじめが発生しやすいんです。夏休みの浮足だった気分が抜けきらないまま、文化祭や体育祭とか行事が続いて非日常感が切れないからだと思うんですが。まあ、それはともかく。文化祭の練習で一際音痴の子がいまして」
うちの子?と短く発する愛生に、一昨年ですから今の六年生の話ですよと末田が耳打ちをする。
「で、音痴だけならまだしも、その子は歌うのが好きだったらしい。つまり、外れた音程にも関わらず大きな声で歌う。当然、バカにされますよね。それが嫌でその子は小さい声で歌うようになって、そうしたらその遠慮がちな様子が面白かったんでしょう、他の授業のときに末田に指されたときにも、みなが笑うようになった。と、まあ。ここまではよくある話です」
末田を一瞥するとくすぐったそうに鼻の穴を膨らませていた。
「そこで末田は、個人レッスンに付き合ったんです。昼休みや放課後なんかに、その生徒とふたりきりで練習して、見事上達させたらしい。その上達っぷりにいじめていた生徒たちも関心して、逆に練習に精が入り、一昨年は見事グランプリを受賞したんです。……って、合ってたよな、末田?」
「う、うん……。よくそこまで覚えてたね」
「凄く生徒想いなんですね。」と愛生。
「うーん、中々そこまでできなそう」と娘。
「いや、やっぱりね。いじめはいけないことですから。何とかそれをやめさせたいなって思って、けれど教員が力づくで介入したところで上手い解決にならないんです。そこで、力づくではない解決方法って何だろうって考えたときに、まずは君がやっていることは楽しいことで、それは正しいことだよって教えてあげたかったんです。それを恥しいと思わせないためには、皆に笑われなくなるしかないから。だから、僕も歌は下手なんですけど、一緒に練習をしました」
「いじめっ子たちを見返したわけだ、その子も偉いね」と娘が言うと
「それは違いますよ」末田はやんわりと言った。ぽかん、と呆ける娘に、
「さっきの聡の話は、たまたまの話ですから」
とだけ、ぽつり言う末田に娘は頭を傾げている。一方、愛生はじんまりと末田を見つめていた。
「その子が偉かったのは確かです。けれど、歌が上手くなって彼が救われたのは、結局彼が皆に本当には嫌われてなかったから。それだけです。決して、これでいじめが解消されるなんて、ぼくに確信があったわけではありません」
「じゃあ、何で教えようと思ったの?」愛生が訊ねる。
末田は暫く喋り通しだった口を潤すため、水滴に濡れたグラスを持ち煽った。
「せめて、音楽の楽しさだけでも忘れて欲しくなかったから」
末田はすっかり出来あがっているようで、胡乱な眼つきになってきていた。
「ぼくが中学生のときにいじめられていたの、飯島さん覚えていますか?」
末田のグラスに新しいカクテルを作りながら、飯島は頬笑んで首を曖昧に傾げた。傍から見るに必要以上の衝撃を受けた様子の末田は、眼を細めながら相槌をする。
「ぼくはいじめられてたんです。そのときの、ぼくの友達は本と画布だけだった。でも、彼らはぼくを充分に助けてくれていた。辛いときにはいつも傍にいてくれた。だから、彼のいじめを救うことはできないかもしれないけれど、中学生や高校生になってからまたこんな目に合うかもしれないけれど、ぼくにとっての本や画布が彼にとっての音楽になれたなら、そう思っただけなんです」
言い終わると、末田は再びグラスを煽り、ふん、と鼻息を鳴らした。すると愛生は末田の腿に手を重ねて置き、そっと彼の頬に顔を近づけ、囁いた。
「先生は、立派だと思います。本当に、本当に。」
末田はそのやわい感触に肩を揺らしたが、その後に続いた言葉が酔いに溺れる男の心を更に深部へと誘った。末田は小さく嗚咽を漏らした。愛生は彼の腿と背を擦りながら、慈しむように末田を眺めていた。娘は眼の前の光景が信じられないらしく、大げさに表情を歪めて聡に顔を向けた。やめろ俺は客だぞ、と聡は声に出さず囁きながらも、内心穏やかではない。
美談を語ったのは、はなむけのつもりだった。が、当然底意地の悪さも交る。お前が妄想逞しく溺れたところでこの女は俺のものだという奢り、優越感に浸る悦びを味わっていたのに、この光景は何だ。愛生は末田に確からしい視線を注いでいた。盗人は性欲を刺激する。けれど、それが盗人として成立しない末田だからこそ、単なる児戯として扱えた。それだけではない。末田の美談を語る内、次第に違和感を抱き始めている自分に気が付いていた。これは決して「美談」ではない。ありふれた末田の話、確かに末田は子供たちを愛していた。子供たちに自らの来歴を重ねてはいたが、彼には教員として勤めていく為の強い動機があり、裏打ちされる行動の如何には全て、愛が通底していた。彼の人生には熱意があったのだ。一方で自らの人生には熱意がない、それを今、聡は思い知らされたのだった。
腹底で憤怒が燃える聡は舐めるように末田を睨んだ。一方、末田は愛生に擦られながら未だ嗚咽を漏らしていたのだが、感極まったのか突然、
「愛生さん、僕は中学生の頃からあなたをずっと……」
と漏らし始めていた。滑稽でしかない男の姿を娘はせせら笑いながら聡の顔色を窺っている。
「ありがとうございます。けど、だめ。私みたいなのに、末田さんは勿体ないですよ」
愛生はにんまりと笑って頭を下げた。
聡は末田の背中を擦っていた。末田は薄暗い路地に蹲り安酒に痙攣する胃からすえた吐瀉物を漏らしている。自動販売機で購入した水を手渡すと、彼は喘ぐように呑み干した。聡は酸い臭いに顔を歪めながら上を向いた。狭い空に星は見えない。今夜は曇天だった。
末田を傍らで見守りながら、葵さんは今晩早上がりですよという娘の耳打ちを思い出す。聡は今晩会おうよとメッセージを送った。が、すぐには連絡が来ない。光る画面を茫と眺めて乾いた夜風に酔いがきりりと冷めて来た頃に、我に返れば呻きの変化に気付く。視線を刺せば、末田の相貌が街灯に濡れていた。口周りは黄色く光っている。
ぼくは駄目な奴だよ……。末田が呟く。知ってる、と聡は答えない。
援助交際をして、憑きものが落ちた気がしていたんだ。不思議とスッキリした気分だった。ああ、もうコンプレックスは消えたんだって思った。でも、悪いことをした、いけないことをしたんだっていう罪悪感は、あれから常にある。
呂律の回らない舌で末田は続ける。
あの援助交際は僕に必要なことだった。けれど、あれは絶対にするべきことではなかったんだ。そんな、そんなぼくを愛生さんは「立派です」って言ってくれたんだ。
知らないからだろ、今度は口に出した。
「それでも、それでもあの言葉に救われた。ぼくの人生が肯定された気がしたんだ」
携帯端末が震える。ふと確認すれば、今夜は遅番なのごめんね、という愛生からの連絡だった。店から続いていた聡の苛立ちは既に頂点にある。眼の前の男は十年越しに同じ女に惚れ直していたのだが、女にとってその年月は性の享楽舞台から階を一段ずつ転げ落ちてゆく日々でしかなかった。彼女の人生の頂点は既に過ぎ去っていた。そんな女が、改めて、見初められた。
吐瀉物にまみれ路傍にへたり込む男が、聡には眩しかった。自身を苛む劣等感から幼い少女の偶像を求め続けて来た男は、その反面、自身を何一つ満たさないと知った上で、自らの職能をフルに発揮し社会に応えて来た。そして想いの強さ故、この度、道を踏み誤った。が、ここで彼は希望を得ようとしている。その希望とは聡の快楽のことだ。それが、この男は気に食わない。
「愛生は子供が産めないんだ」
末田は表情を歪めた。その事実よりも、それを何故お前が知っている、という風に。
「倫子を産んだ障害らしい。そんな女でも良いのか」
愛生の身体は美しい。乳房も、腰のくびれも、滑らかな肌も、男を満足させて尽きない。けれど、女としての本質的な機能は失われて既に久しい。彼らが初めて交わった際に非妊の不必要な理由を聴き、聡は強く興奮した。彼女の美や官能とは、きっと不在が作る女の魅力なのだろう。
「聡が飯島さんの何を知ってるんだよ。……というか、聡。まさか」
「さあね。でも、お前みたいな奴を愛生が相手にするとは思えないな」
人一倍に愚鈍な末田でも流石に判り始めていた。ゴシップとして聴く分には心浮かす話も、自身が好いたではそうもいかない。末田の胸中では愛生への想いと倫子への憐憫、そうして沙耶への同情が混濁し言葉が見つからない。煩悶した末田が、
「倫子の父親になる気があるのか」
やっとの思いで振り絞った問いだった。
「ないよ。種もわからない奴の親になんて」
その言葉に、末田は屹然とした眼つきで応じた。不愉快な視線だった。お前みたいな援助交際野郎に女を奪われるわけがないだろう、そう思いながら末田に背を向けた。末田は追って来なかった。
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