第7話 セカンド童貞が語ること
にーわのシャベルがいーちにーち濡れて
あーめがあがってくーしゃみーをひとつ
指揮棒をひらひら動かす聡の前では生徒たちが二列に並び唄っている。一カ月あまりの練習の甲斐もあって流石に声が揃っており、この分なら保護者にも聴かせられると聡は安堵していた。文化祭は既に今週末に迫っていた。文化祭は午前中の前半に各教室での自由研究の発表、後半には体育館に移動しての読書感想文優秀者の発表。そして、午後に合唱という流れになっている。研究発表はどのグループも完成しており、読書感想文発表者の倫子も緊張さえしなければ大丈夫だろう、そして合唱もこの出来だ。例年通りの文化祭になりそうだ、そう胸を撫で下ろしていた。
聡が安心している理由はそれだけではない。この頃、幽霊騒ぎがすっかり落ち着き始めていたこともあった。何年何組の誰々が帰り道に人語を発する猫を見た、誰々がいつも長袖を着ているのは幽霊に憑かれているからで右肩には人の顔をした痣があるらしい、他にも定番の、誰もいないのに音楽室からピアノの音が聴こえたなど、過熱の一途を辿った心霊ブーム。それがここ数日間、すっかり影をひそめていた。文化祭が近くなり、関心がそちらに移ったのだろうと聡は理解していた。けれど、男子生徒が妙にそわそわしているのが気になってはいた。
放課後の練習を切り上げて職員室に戻っても末田の姿が見えない。まだ放課後の練習を行っているのか。流石に熱心だなと思っていると、同じく五年に担任を持つ教員が聡の下を訪れた。
「末田先生のこと聴きましたか」
聡は首を横に振った。
「……未成年を買春したらしいですよ」
やめて欲しいですよねえ、こんな文化祭直前に……。迷惑そうに顔を歪めたが、その裏側には賎しい光が宿っていた。教員は携帯端末でとある画像を見せた。薄闇の中で横たわるスカートだけを身に着けた女と、その上に被さる男。女は顔を背けており確認できないが、ぼんやり映った苦悶を浮かべる男は末田によく似ていた。
「この写真、どうやら生徒たちの間で出回っているみたいなんです。彼らがどうやってこんな写真を手に入れたのかはわからないですが……。ともかく最悪ですよ」
そう言うと教員は自分の机に戻り、隣の教員とまたぞろ話を始めた。見渡してみると、殆どの教員たちが近くの者たちと密やかに話しをしており、その多くが末田に関することらしかった。
――でもまだよかったわ……自分の生徒に手を出さなくて。
結局、定時を過ぎても末田は戻って来なかった。
お前さ、援助交際したってほんと。携帯端末でメッセージを送る。暫くすると既読マークが付き、本当だよ、と返信が来た。お前バカだろ。自分でもそう思う。……辞めんの。だね、懲戒免職ってやつ。逮捕とかは。それは大丈夫っぽい。いつまで学校来るの。もう無理っぽい。明日荷物片付けて後任の先生に引き継いだら、もうおしまい。
「せめて、文化祭まではいたかったよ」
ぷはあ、とビールを呑み干して末田は言った。お兄さん、ビールおかわり、と赤ら顔で続ける。
「けど、生徒たちに回ってんだろ、あの写真。なら保護者も当然知ってるだろうし、文化祭で囲まれてみろ。学校的にもそれは避けたいがためのこの判断なんだろ」
上野の居酒屋街の喧騒に身を包まれながらそう応える。
「というか、なんで援助交際なんかしたの」
聡は訊ねた。並々と注がれたジョッキに末田は手を伸ばした。
「相手は学生じゃないよ。十八歳だから条例的には問題ない」
「けど、援助交際は成人相手でも犯罪だ」
末田はもどかしそうに返答を詰まらせ、割り箸でポテトサラダをつまんだ。聡は何とはなしに箸先を眺めていたが、ふとテーブルの上の料理を見てみれば、ポテトサラダのほか焼き魚に煮物など、あっさりとした料理ばかりが目立つ。聡は店員を呼んで鶏のから揚げともつ煮を急ぎ頼んだ。末田は店員がメモを取る間、所在なさげに割り箸を何度も動かし、目線を落していた。店員が去った後、末田はそっと口を開いた。
「ぼくさ、小さい頃、いじめられてたでしょ」
聡は認めた。けれど、いじめられていたのは彼だけではない。地底人たち全員がそうだった。地底人への迫害は当たり前の風景だった。
「辛かったよ。なんでこんな目に合うんだろって思った。けど、聡はいじめなかったよ。聡の友達は皆ぼくをいじめてたけど、聡は違った。だから、今こうして呑んだりできる」
見当外れだった。聡が当時を振り返って思うことは、ただ俺は傍観者だったということ。周りの連中は男女問わず地底人で遊んでいた。それを当たり前の光景としながらも、内申を悪くすることだとわかっていたため、加担しなかっただけだ。ただ、傍観者もみじめな地底人たちを腹底では嗤っていた。
「学生時代に良い思い出なんてないよ。みじめで、辛かっただけ。だからぼくは教師を目指した。ぼくみたいな子をひとりでも多く減らすために。そうすれば救われる気がしたんだ。それで勉強も頑張って、実際に教員にもなった。でも、努力すればするだけ、走れば走るだけ、暗い気持ちが色濃くなってゆくだけだったんだ。ぼくがさ、救われる思いがしたのは、或る同級生のことを考えるときだった。飯島愛生だよ」
一寸、聡の心臓が跳ね上がった。平生を装おうとビールを口に含む。
「飯島さんが、ぼくを助けてくれたことがあったんだ。放課後、校舎の裏で連中に囲まれてさ。ズボンを脱がされてパンツ一枚だった。それでパンツも脱いでオナニーしろって迫るんだ。そこに飯島さんが通りかかってさ、多分男子生徒から呼び出されていたんだろうね。涼しい顔してた。何でもないよって表情だった。それで、そのままの表情でこっちに来ると、連中を諌めたんだよ。「みっともない」って。飯島さんが連中にあの美しい眼差しをじっと注ぐと、彼らは散って行ったよ。彼女はモテたから、惚れてた奴もいたんだろうね。そうして残された僕に、大丈夫?って聴いてくれた。僕は恥しくて、ありがとうって言うこともできなかった。すると、彼女も消えた。凛としていた。この世のものとは思えなかった。それで好きになったんだ。……けど、彼女は突然姿を消してしまった」
そうだ、妊娠した彼女は学校を去った。やがて倫子を産み、それからずっと花を売る生活をしている。
「あのときは本当にショックを受けたよ。けど、暫く経って大学生くらいになると思いだすこともなくなってたんだ。そして教員になって、倫子が現れたんだ。倫子は美しかった。まだ幼く、ほんの些細なことで表情を綻ばせる。けれどその中に怜悧な刃物のような鋭さがあって、飯島さんそっくりだよ。そして、授業参観で飯島さんにも再会した。あの頃とちっとも変ってなかった」
「それで、当時達成できなかった想いを遂げる代わりに、援助交際を?」
末田の目がぎらりと光った。
「……そうだよ。二重三重の代替物として援助交際をしたんだ。あの頃、聡たち皆が利用していたあのホテルで。きっと、飯島さんも使ったあの……」
聡にはよくわからない感覚だった。常にセックスが隣にある聡には、性欲の為に人生を棒に振る気持ちは微塵もわからない。ただ、滑稽な奴だと呆れるばかりだが、一つだけことがあった。
「それで、お前は救われたのか?」
末田は口を噤んだ。聡は待ったが、返答は意図したものと異なっていた。
「なあ、飯島さんのお店すぐ近くなんだ。今から行ってみないか」
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