第15話『煙にまぎれて』


 その日も、リサの指名だった。


 週の真ん中。雨の匂いが店内まで入り込んできた夜。

 リサはいつもより無口で、ウイスキーのペースが早かった。


 「今日、ちょっと酔っ払いたい気分なの」


 そう言って、笑った顔はどこか遠くを見ていた。

 指先に光る爪が、グラスの縁をなぞるたび、ガラスがわずかに震えた。


 ホテルはいつもの場所。

 部屋も同じだったのに、今夜は妙に沈黙が多かった。


 シャワーを終えたリサは、ベッドの上でタオルに包まっていた。

 化粧を落とした顔は、まるで別人のように幼く見えた。


 「ねえ、ユウくんって、ほんとに好きな人とかいないの?」


 「いない」


 「一回も?」


 「うん」


 リサはふっと笑って、タバコに火をつけた。

 煙を吐き出す間、何かを言いかけて、飲み込んだようだった。


 「……昔さ、結婚してたの」


 急に落ちた声に、僕は顔を向けた。


 「三年くらい。でもだめだった。

 向こう、子ども欲しかったけど、私、病気でできなくてさ」


 タバコの灰が、ぽとりとシーツに落ちる。

 リサは気にせずそのまま続きを話した。


 「“女として終わった”って、言われたの。別れるとき」


 言い終えたあと、彼女は一瞬だけ視線を僕に投げた。


 「……でも、だからって“人として終わる”わけじゃないでしょ?」


 その問いに、僕はうまく答えられなかった。

 ただ、「そうですね」とも言えなかった。


 リサはベッドに横たわったまま、僕の手首をとった。


 「君の手、すごく綺麗」


 「……よく言われる」


 「その手で、なにか描いたりする?」


 その言葉に、わずかに指が動いた。

 でも、僕は首を振るだけだった。


 「もったいないね」


 リサは静かにそう言って、僕の手の甲に口づけた。


 今夜、身体の関係はなかった。

 リサは「今日はだめ」とだけ言って、背を向けて眠った。


 僕はベッドの隅で目を開けたまま、しばらく天井を見ていた。


 触れあわない夜のほうが、

 彼女の体温を強く感じた。


 朝方、玄関で別れるとき、リサがぽつりと呟いた。


 「君の手、誰かのために使ってあげなよ。せっかくだから」


 それが“誰か”に僕自身が含まれるのか、それとも他人のことを言っているのか、わからなかった。


 その日、部屋に帰ると、なぜか筆を一本だけ取り出してしまった。


 絵は描かなかった。

 でも、手にしただけで少しだけ、心が騒いだ。



   ◇ ◇ ◇



 「今日はホテルじゃなくて、ちょっと寄り道しない?」


 指名を終えた帰り、いつものビルの前でリサがそう言った。

 雨が降っていた。夜の街がぬるく湿って、足音が水たまりを叩いていた。


 「……どこへ?」


 「秘密」


 その笑いは軽かったけど、どこか素だった。

 彼女がこんなふうに“本気じゃないことを言わない夜”は、たぶん初めてだった。


 二人で入ったのは、薄暗い喫茶店だった。

 駅の裏手、通りを一本ずれた場所。

 夜中なのにまだ開いていて、レトロな音楽が小さく流れていた。


 「……ここ、昔よく来てたの」


 リサはそう言って、ミルクティーを注文した。

 僕はコーヒーを頼んだ。

 対面に座ると、彼女の視線はグラスの水に向けられたまま動かなかった。


 「ねえ、ユウくん」


 「なに」


 「好きな映画とかある?」


 唐突だった。だけど、その唐突さが妙に心地よかった。


 「ない。映画、あんまり観ない」


 「そっか。……じゃあ、音楽は?」


 「クラシック。子どものころピアノやってたから」


 「へえ。似合う」


 その言葉に、僕は少しだけ肩の力が抜けた。


 喫茶店の窓を打つ雨の音と、砂糖をスプーンでかき混ぜる音だけが空間を埋めていた。

 言葉がないのに、なぜか“満ちている”感覚があった。


 ホテルのベッドでは得られない、“触れないまま重なる空気”。


 「……今日、泊まっていかない?」


 帰り際、リサがそう言った。


 「……でも、」


 「ううん、そういう意味じゃなくて。

 なんか、今日の君は……ちょっとだけ、私と似てる気がしたから」


 その言葉の意味は、結局最後まで聞かなかった。


 その夜、リサの部屋に泊まった。

 身体には触れなかった。

 ただ、隣で背を向け合って、静かに眠った。


 暖房の音と、二人の寝息と、雨が止んだ街の静けさがすべてだった。



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