第14話『煙の奥に』
五日目の夜、「Bleu」の空気は少しだけざわついていた。
週末が近く、客の入りも多い。
僕はいつも通りカウンターの端でグラスを磨いていたが、なぜか陸さんの視線がちらちらとこっちを向いていた。
「ユウくん、ちょっと来て」
呼ばれて振り向くと、奥のブースに女がひとり、頬杖をついて待っていた。
「リサさんって人。ちょっと前に来て、君のこと見てたらしいよ」
そう言って陸さんは僕を軽く押すようにして前に出す。
僕は戸惑いながらもブースに近づいた。
「初めまして、ユウくん」
リサと名乗った女は、二十代後半か三十代前半か、曖昧な年齢の美しさを持っていた。
目元の化粧は濃いけれど、どこか寂しさが滲んでいて、笑い方が静かだった。
「……初指名ってやつ?」
「そう。ちょっと試してみたかったの」
「僕は、喋るのとか得意じゃないけど」
「それでいいの。静かな子がよくてね」
そう言ってリサは、グラスに唇をつけた。
その夜、僕ははじめて“お客様”の前で「演じる」ことに成功した気がした。
何もしていない。でも、ちゃんと隣にいた。
リサは酔ってなかった。ただ、ひとりで飲むのが寂しかっただけ。
僕が「黙って隣に座っていること」が、彼女にとってはちょうどよかったらしい。
「また、来てもいい?」
帰り際、そう言われたとき、僕は小さく頷いた。
それが“はじまり”だった。
声を張らなくてもいい。愛想笑いが下手でもいい。
そういう「需要」があると知ったことで、僕はさらに深く“Bleu”に染まっていった。
◇ ◇ ◇
「タバコ、きれるなあ〜。買ってきて」
深夜、カレンの部屋で、彼女がベランダに寝転がりながらそう言った。
僕は財布を持って、近くの自販機へと向かった。
戻ると、部屋の電気は落ちていて、窓から差し込む街灯の光だけが部屋を照らしていた。
そのなかで、カレンが、なにかをじっと見つめていた。
「……なにしてるの?」
「んー? 手帳見てた。あたしの、お客さんリスト」
言いながらページをパラパラとめくる音。
なにげなくその手元を覗くと、そこには細かい字でびっしりと名前と日付、プレゼントの記録が書かれていた。
「君もさ、そろそろリスト作ったら?」
カレンは笑いながら言ったけど、目は笑ってなかった。
その手帳は、どこか“戦績表”みたいだった。
「……君は、楽しそうだよね。いつも」
「うん、そう見えるようにしてるから」
即答だった。
僕はその返答に、なぜかひどく冷たいものを感じた。
「絵、描かないの?」
不意にカレンが言った。
「……描かないよ」
「そっか。じゃあ、君はもう“見世物”になるしかないね」
その言葉は、笑いながら放たれたくせに、棘があった。
「……そうやって、ずっと演じてるの?」
「ううん、違うよ。演じてるフリしてるだけ。
本当の“わたし”ってやつは、たぶん君が一番見たくないものだから」
そう言った彼女の横顔は、どこまでも綺麗で、どこまでも壊れかけていた。
その夜、僕はベッドに潜り込んだあともしばらく眠れなかった。
“花向カレン”という存在が、ただの気まぐれな不思議ちゃんじゃないことに、ようやく気づきかけていた。
彼女は「誰かを壊す」ことで、自分の形を保ってる。
でもそれは、自分自身が壊れているから──
そんなことは、とっくに知ってた。
“花向カレン”は、ただの不思議ちゃんなんかじゃない。
はじめからそう見えていたし、最初の夜からずっとわかってた。
でも──だからって、どうでもよかった。
壊れているのが彼女だろうが、自分だろうが。
世界がどうなっていようが。
もう、興味なんてなかった。
ただそこにいて、ただ日々が過ぎていけば、それでいい。
それが、今の僕だ。
◇ ◇ ◇
「今日、ついてく?」
そう言われたのは、二回目のリサ指名の夜だった。
店内の喧騒が少し落ち着いた閉店前。
リサはウイスキーのグラスを指先で転がしながら、酔ったふりをして僕を見つめていた。
「ホテル、取ってあるから。無理なら断っていいよ」
陸さんは何も言わなかった。
ただ目が合ったとき、小さく頷いた。それが、答えだった。
ホテルの部屋は、思ったよりも静かだった。
リサは先にシャワーを浴びて、バスローブのまま出てきた。
「ユウくん、緊張してる?」
「……別に」
「そっか、じゃあ大丈夫だね」
そのまま何も問わず、彼女は近づいてきた。
柔らかく、やさしく──でも、“本気”じゃないのがわかった。
これは仕事。
演技。
互いの孤独と寂しさを、ひと晩だけ押し付け合う行為。
肌が重なったとき、僕は何も感じなかった。
快楽でもない。嫌悪でもない。
ただ、「なるほど、こういう感じか」と思った。
人に触れられても、自分の輪郭はぼやけたままだった。
終わったあと、リサは煙草を吸いながらぼそっと言った。
「ユウくん、こういうの慣れそう」
「……それ、褒めてる?」
「うん。武器になるってこと」
窓の外に、朝焼けの色がにじみ始めていた。
タクシーに乗せられて、ひとり帰る帰路。
フロントの鏡に映った自分の顔は、いつもと変わらなかった。
──“最初”って、案外こんなものか。
痛くもなく、嬉しくもない。
ただ、またひとつ“自分”が剥がれた感じだけが残った。
部屋に戻ると、カレンはすでに寝ていた。
ベッドの端に小さく丸くなって、目を覚ます様子もない。
僕は黙って服を脱ぎ、シャワーを浴び、何も言わずに隣へ横たわった。
タバコとホテルの匂いが、肌に染みついていた。
こうして、“はじめての夜”が終わった。
僕は絵を描かない。
でも今、ひとりひとりに自分を“描かれている”。
気がつけば、そういう生き方しか残っていなかった。
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