29.出席ナンバー1から6までの諸事情
少しして、ベージュ色のツーピースを着た女性がさっそうと現れる。
顔が正男の姉の顔そのもの。だが彼女は正真正銘、ここ第一帝国大学工学部の講師なのである。二十八歳で大学の女神と呼ばれるほどの美人だ。
「はあい、みなさんお待ちかねの複素関数論、第二回目講義始めるわよ~」
正男は、読みかけの手紙を素早くポケットにしまった。
この世界の真ん中で正男は「姉ちゃん!」を叫ばなかった。そして「すっかりおばさんだな」も言わなかった。七度目の張り手は回避されたのだった。
教壇に立つ大森先生が履修者名簿を手に取る。
「それじゃ出欠取るわよ~。出席ナンバー1、
「はーい」
「あら髪切ったのね?」
「はい、気分転換でバッサリです」
先週この講義室で見た紫蘇味は、背中まで髪を垂らしていた。ところが今日は、かなり短く、いわゆるボーイッシュヘアに変わっている。
「次ナンバー2、アルバイトアインシュタインさん」
「ヤー、グーテンターク!」
「はいこんにちは、今日も元気ね。あ、ところでお仕事もう見つかった?」
「ナイン! マダイッコモ、メッカラナインデース!」
「ありゃりゃ、そうなのね。まあ不慣れで、しかもこの世知辛い日本で、大学の授業料分を稼ぐのって容易なことじゃないとは思うけど、無理せず焦らず、そんでもってがんばって頂戴。どうしようもなくて困るようなら相談に乗ってあげるわ」
「シンパイネー、マカセテチョーデェ! キョーモ、バイトサガシ、ヤー♪」
「その調子ならホントに心配なさそうね。うふふ」
通路を挟んですぐ横にいる萩乃は、この会話を聞いて心から感服した。
(なんとまあ、アインシュタインさんって、ご自分で学費を稼がれるおつもりなのね。とてもご立派なことだわ。ずっと遠い異国から、はるばるいらしているだけでも大変なことでしょうに。もしわたくしでしたら、そんなにまでも、できますでしょうか? いいえ、きっと途中でくじけてしまいますわ)
人はそれぞれに事情を持っているものだ。置かれた状況で各自ベストを尽くせばよいではないか。
そう萩乃、少し肩の力を抜くがよい。残り少ない人生に絶望することなく、懸命に生きているのだから。ゲームをしながら。
「それじゃ次の人、
「はい。グーテンターク大森先生」
「はあい出席マル。いい発音だったわよ」
「ありがとうございます」
「ええっと、次の
(牛飼さん、今日はどうなさったのかしら?)
春風の姿を先週初めて見た瞬間、萩乃は春風に対し「わたくしと同じ学年とは思えないくらいに、知的で素敵で大人の雰囲気をお持ちの女性ですわ」というような印象を抱いていた。
実際のところ、高校留年一回と二年間の浪人時代を経て入学してきた春風は、この世界の萩乃より三歳上であり、ゲームをプレイしている萩乃から見ると五歳も上ということになる。だから、そう見えたのも無理はない。彼女はれっきとした大人である。
「次そこっ! 出席ナンバー5の大森正男さん!!」
「は、はい、え?」
「あなた、窓側特等席がお気に召したのかもしれないけれど、残念ながらそこはあなたの席じゃないわよ」
(あらいやだわ。わたくし、そのことをお教えしようとしていたのに……どうしましょう。大森くんは今、わたくしのことを「知っていながら黙っているような気のきかない女だなあ」とお思いになっているのではないでしょうか?)
手紙を手渡すのに精一杯で、そのあとも胸のドキドキが止まらず、思考が停止状態となっていたから、席違いのことは完全に忘れていたのだ。
だが、当事者からは至ってシンプルかつ軽い応答。
「マジ?」
「マジよ。先週あなたは、指定された通りその机の右側席にいたでしょ?」
「ええっと、はいはい、そうでした! ついポカポカ陽気が気持ちよくって、えー本日もよいお日柄で~」
「大森さん!」
「はい、じゃなくて、お席がお悪いようで……」
(おっしゃる通りですわ。わたくし、本当にお悪いことをしてしまいました。あとでちゃんと謝っておかないといけません)
だが、まだ始まったばかりだ。そこまで気を遣っていると、この先やってはいかれない。ゲームとはいえ、リアルに神経が擦り減る。
「で、その窓側特等席のナンバー6、
天狼についての情報はゲーム開始時点から萩乃の記憶にある。
彼の父は小企業の社長で、萩乃の兄の会社の下請けをしていた。つい最近、経営不振のためその小企業は倒産した。兄の話によると、天狼の家族は路頭に迷いかけているらしい。
この場の者で知っているのは萩乃だけかもしれない。
(雄猫田さんのこと、先生にお伝えすべきでしょうか。それとも、余計なお世話だと思われるでしょうか……)
自由意志を持つ人間でも迷うことは当然ある。
むしろ自由意志があるが故に迷うものだ。
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