アイスフレンドⅦ
冷たい金属音が部屋に響いて、そのあとに小さいスイッチ音が鳴った。
人間がその肉体を捨てて機械の体を手に入れることのできる時代でも酒や麻薬の類は形を変えて生き残っている。化学の発展によって、熟成という過程を経なくても
ライターも今や完全に過去の遺物だ。ローガンの持っているモノもかなり年季が入っていて、傷や汚れが目立つ。替えを見つけるのが難しいので、まめに手入れして、何とか長く使っているような感じだった。
普段のモスクワは24時間、嫌というほど音と光で溢れているのに、今この部屋はには静寂が広がっている。何者かに自分の人生を批評されているかのような感覚を覚える。気の進まない仕事をやらなければいけない時はいつもこんな感じだ。吸い終えたタバコをテーブルの上の灰皿に押し付けて、それからローガンは彼の仕事仲間たちに連絡を取った。
テーブルの上にはケータリングの料理が並んでいる。オレグが家に来ると知って、イスラが前もって頼んだものだ。オレグはそれを見て驚いた。それらは、オレグが普段食べているような安い屋台の料理とは違い、有名なホテルのレストランのものだったからだ。
「これ、どうしたんだ?」オレグがそう聞いた。
「オレグが来るって聞いたから、頼んでおいたんだ、私はもうすぐ出ないといけないけど…。この間の仕事でお客が食べさせてくれたの。知ってる?ゼブラホテルってホテルに入ってるレストラン。仕事は嫌だったけど、これだけはよかったから」イスラが屈託のない笑顔で答えた。この後、また仕事があるのか、彼女は高そうな毛皮のコートを着ている。首にストールもまいて、なんだか過去に流行った生身の人間の女優を想起させるような恰好だった。
「そうじゃなくてさ…、最近、嫌に羽振りがよくないか?こないだ来た時も思ったけど、服もいいやつばっかりだし…」だんだんと声のトーンを下げながらオレグが言った。
「ん~、太客ってやつ?何の機械も入れてない女の子じゃないと興奮できない変態がいてさあ。キショいけど、お金はいっぱいくれるんだー。だから、こうやってオレグと一緒に美味しい物も食べれるってね」
「イスラ…」
オレグは料理には手をつけられず、下を向いたままだった。
「俺はこんなのいらないよ…、首の傷、絞められた痕だろ?」
イスラは思わずストールの上から自分の首を指で触った。
「ハハ、ばれちゃった?ちょっと過激な客なんだけど、でも大丈夫。お金もいっぱいくれるし…」
「金のためなら薬も使うのか」オレグがポケットの中から
「それは…」
「痛み止めだろ、
「じゃあどうすれば良いんだ」オレグは顔を上げる。イスラの目は怒りに満ちていた。「このまま永遠に、生身の女にしか金を出せないような男にダラダラ身体を売り続けろって言うの?」
「そうじゃない、ただ…、こんなの使ってたら、本当に身体も心と壊れて、取り返しのつかないことになるぞ。俺は、それが心配で…」
「もう遅いよ。私にはこの道以外ない。なんの技術もないんだ。学校だって行ってない。身体を売るしかないんだよ。それもいつかは年をとって売れなくなる。そしたら惨めに死ぬだけだ。だったら、今、身体を大事にする理由って何?」言いながらイスラは泣き出していた。オレグは何も言えなかった。静寂が部屋を包んだ。
「…私だってこの仕事が嫌いだよ、これしかできない自分も嫌いだ。でもお金があれば変わるんだよ。…変わらなくても、少しはマシになる。こんなところ出て、学校に行って、新しい仕事も見つけて、
オレグは何も言えなかった。
二人とも何も喋らなかった、少しの間の後、イスラは立ち上がって、涙を手で拭いてから、部屋を出た。
オレグはまた一人残された。
俺が居るから、お前はもう何もしなくて良い。そうイスラに言いたかった。そう言えるだけの金も力もない自分をまた呪った。
オレグはふらつきながらイスラのアパートを出ていく。今日もまた、何もできないまま。
ローガンのマンションのリビングの、壁一面の窓からは、モスクワ摩天楼が一望できる。高級コンドミニアムの46階が彼の根城だ。銀狼の名が売れ始めたときに、どうせならこの街での成功を感じながら暮らしたいという事で、張り切って景色の良い物件を選んだのだった。
「――でもすぐに飽きちゃったけどな」
窓の前に立って、右手にはコーヒーの入ったマグカップをもって、外を眺めながらローガンがつぶやく。リビングの真ん中には景色を一望できるように大きな円卓が置かれており、それを囲むようにこれまた円形にソファーが設置されている。これもこだわって選んだはいいが、一人で使うには正直持てあましている代物だ。
ソファーには、ルイースとフリッツが座っている。ルイースの前にはコーヒーの入ったマグカップが置かれており、フリッツの前には何も置かれていない。
ローガンは振り返って、ソファーの背もたれを飛び越して、そのまま勢いよく座った。手慣れた動きで、コーヒーもこぼしていない。いつもやっているであろうことがうかがえた。
「ルイースの新しい家はどんなだ?窓はデカくしすぎない方がいいぜ、西日が熱くてかなわん」コーヒーを一口すする。
「今それ言っても仕方ないだろう。もう買ったんだから」フリッツが言った。
ルイースは二人を一瞥して、小さくため息をついてから答える。「…月が良く見えるところにしたよ。結構、高いところ…星を近くに感じられるように」
「月か」ローガンは天井を見上げる。「いいねえ…、一度行ってみたいもんだ」しみじみ呟いた。
部屋のチャイムが鳴った。
「来たか」部屋のロックを外し、ローガンは来訪者にどうぞ、とメッセージを飛ばした。
「誰?私の知ってる人?」ルイースが尋ねる。
「いいや、多分初めましてだ。でも信頼できる人だ。それは保証する――」
「こんにちは」そう言って現れたのは、銀髪の女性検事、カタリーナ・ザイツェフだった。手には高級そうな紙袋を携えている。
「どうもどうも、高そうなお土産まで持ってきてもらって…コーヒー入れましょう」ローガンは立ち上がる。
「カタリーナ」少し驚いた表情で、ルイースは彼女の名前を呼んだ。
「久しぶりね、ルイース」
「あれ?知り合い?」バーカウンターの方からローガンが言った。ケトルに水を入れて、火にかけてお湯を沸かし、コーヒーを淹れる、というプロセスはこの時代になっても変わっていない。
「何度か仕事を手伝ってもらいました。ルイースもローガンさんの弟子だったのね。アズサとアルトと一緒だ」それを聞いたルイースは怪訝そうに首を振った。
「さすがカタリーナさん、顔が広いですね…、これで全員だ。ダナ!」ローガンが名前を呼ぶと、テーブルの上にダナのホログラム映像が現れる。オンラインになった証だ。
「仕事の話といきましょう」全員が円卓に着席した。ダナのホログラムが身振りをすると、とあるビルの3Dモデルとロケーション情報が示され、それらを背景に彼女は今回の
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