第3話「こんにちは、世界」と少女は歌う
祖父が生前使っていたであろう部屋に、アーサーは足を踏み入れる。
瞬間、多大な懐かしさがアーサーの胸に去来した。
古びた書物と、虫除けの精油の特徴的な香りが嗅覚を刺激する。
探した乙女はそこにいた。
アーサーもよく出入りした部屋の奥。
ウインドウシートに浅く腰掛け、柔和な笑みを浮かべながら、乙女は書物を読み耽っていた。
──その姿は、まさしく女神そのものであった。
乙女はよくよく観察してみれば、顔立ちそのものは愛嬌に溢れてはいるものの、
そこいらにいる少女たちとさして変わりのない十人並みの容貌をしている事がわかるだろう。
だがその雰囲気が、その色が、並み居る少女たちとは明らかに一線を画していた。
柔らかな乳白色の髪、冷たく光る真珠の瞳、無機質な大理石の唇、滑らかな白蝋の肌。
しかしてその頬に一片の赤み無し。
「奇異にして神秘」その乙女の姿を的確に言い表せる表現は、それ以外には恐らくない。
彼女が身に纏っているのは一昔前の庶民の女性がよく着ていたシフトドレスに、
安価なウールで作られた
それすら一点の瑕疵にならないほどの見事な彫像ぶりだった。
何も知らない者が見れば、精巧な造り物のように見えたであろう。
この彫像を造った彫師は誰かと、騒動になっていたかもしれない。
僅かな瞬きと上下する胸元のみが、乙女をかろうじて人に見せていた。
「……お久しぶりです」
想い出の中の姿とまったく変わらない乙女を前にして、アーサーは少し逡巡する。
「覚えてもらえているだろうか」という不安が、彼の脳裏によぎっていた。
どう声をかけようかと悩んだ末に、結局ありふれた一言を口にする。
その言葉が耳に入ったのか、ややあって乙女は書物に向けていたかんばせを
音もなく静かに起こし、その真珠の両眼をアーサーへと向けた。
アーサーの黒い瞳と、乙女の白い瞳が交差する。
ドクドクとうるさい程に、アーサーの心臓が鼓動を刻んだ。
乙女は肩ほどまであるミルク色の髪をさらりと揺らし、たおやかな白魚の指を大理石の唇に近づける。
しばらく経って、「ああ」という感嘆と共に彼女は両手をパン!と叩いた。
「ああ、あなた。もしかしてアーサー?
お久しぶりね、全然気が付かなかったわ」
彫刻めいた面に、花のような微笑が広がる。
どうやら思い出してもらえたらしい、とアーサーは胸を撫で下した。
「はい、アーサーです。
大変長らくご無沙汰しておりましたが、
この度報せを受けて戻ってまいりました」
「ごめんなさい。
小さいころと随分変わっていたから、つい」
思い出してもらえて光栄です、とおどけた口調で返す。
乙女は余程恥ずかしかったのか、両手で頬を覆い落ち着きなく視線をさまよわせていた。
そんな乙女の姿を眺め、彼は胸中で「可愛いなぁ」とつぶやく。
祖父が生きていたらそんな彼の態度を不敬と叱責しただろうが、
彼の目には乙女も街中を歩く女性たちもさして変わりないように映っていた。
「いいんですよ。 仕方ありません」
アーサーがこの屋敷に住んでいたのは、彼が1歳から10歳の頃まで。
10歳で乙女の背を追い越した時に、アーサーは迎えに来た母と共にこの屋敷を出た。
母・ヨランダとウォルヌリーチで暮らして以降は、食料やタバコや酒といった嗜好品、書物を始めとする娯楽品と共に、半年に一回近況を綴った手紙を祖父と乙女の住まう屋敷へと送る程度であり、この十数年近く対面を果たしたことは一度もない。
記憶の中の幼いアーサーと、青年になった今のアーサーとは瞬時に結びつかないであろう、と踏んだためだった。
「えっと。私、そんなに変わりましたか?
母からは『小さいころから全く変わってない』とよく言われるのですが……」
「ええ、ええ!目を見張るくらい変わっているわ!
だって昔はもっと、あの水差しみたいにまろやかなお顔をしていたもの! 」
部屋の奥にあるウインドウシートの付近を指さし、乙女は無邪気に言い放つ。
乙女が指さす方へ目をやると、壺のような形状をした純白の水差しがそこにあった。
思わずアーサーの口からげんなりとした声が漏れる。
「ええ……」
「ほらニックスって、いつもあなたとヨランダが送ってくれる荷物を、
ヨッカワ村のお友達の家にまで受け取りに行っていたでしょう?
これはたまたまそのお友達から
『フォトニッヘのストリートセラーから買ったんだが、
やっぱりいらないからお前にやるよ』って譲ってもらった物らしいのよ。
まろやかでつるつるしてて、とっても可愛らしいでしょう?
わたしのお気に入りなのよ! 」
わざわざ乙女が持って来てくれた陶器の水差しを、アーサーは心底微妙そうな顔で見つめる。
いつもなら余すことなく耳に入れている乙女の言葉は、今は8割くらいアーサーの耳から素通りしていた。
「えー……あー…………そうなんですか……」
「ええ、そうなの!
これを見るたびに、小さかったころのあなたを思い出してたのよ」
両手で持った水差しへ、優しい眼差しを落としながら乙女は語る。
幼い頃の顔を壺に例えられて複雑な気分になっていたアーサーも、
それなら良いかと言いたげに肩をすくめた。
「もうすっかり大人になって、精悍な顔つきになっちゃったわねぇ」
「そりゃ、私ももう成人していますから」
以前とは異なる目線で、以前のように笑いあう。
アーサーがここに来た理由を、本来の用事を思い出すまで、
ふたりは暫し、歓談していた。
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