劉義真5 帰還後の処遇  

劉義真りゅうぎしんはその後

都督司雍秦并涼五州諸軍、

建威將軍、司州ししゅう刺史とされた。

また段宏だんこうは劉義真の諮議參軍となった。

彼はその後宋臺黃門郎、太子右衞率となる。



ここで段宏について紹介しておこう。

かれは鮮卑せんぴであり、南燕なんえん

尚書左僕射、徐州じょしゅう刺史となっていたが、

劉裕りゅうゆう廣固こうこを攻撃した際に投降した。

劉義隆りゅうぎりゅうの時に征虜將軍、青冀二州刺史に。

また死後には左將軍を追贈されている。



劉義真に話を戻そう。

いちどかれを洛陽らくように派遣しよう、

と言う話が出たそうなのだが、

この頃洛陽周辺は荒れ果て、

しかも修復が間に合っておらず、

立ち消えに。

その代わり揚州刺史とされ、

石頭せきとう城に配属された。


420 年、廬陵ろりょう王に封ぜられた。

東城とうじょうに移鎮となった。


劉裕りゅうゆうが即位したとき、劉義真は

嬉しそうな顔をしてはいなかった。

いったいどうしたことか、と

蔡茂之さいもしが聞く。すると劉義真は答える。


「父上が即位されれば、

 それで安寧が訪れるだろうか?

 国防の検討を怠るわけにはゆくまい」


421 年に司徒となり、

劉裕が病で倒れると、使持節、侍中、

都督南豫豫雍司秦并六州諸軍事、

車騎將軍、開府儀同三司、南豫州刺吏に。

詳しく言うと「めっちゃすごい地位」

についた。


そして歷陽れきように出鎮することとなったが、

間もなく劉裕が死亡した。




義真尋都督司雍秦并涼五州諸軍、建威將軍、司州刺史,持節如故。以段宏為義真諮議參軍,尋遷宋臺黃門郎,領太子右衞率。宏,鮮卑人也,為慕容超尚書左僕射、徐州刺史,高祖伐廣固,歸降。太祖元嘉中,為征虜將軍、青冀二州刺史。追贈左將軍。時義真將鎮洛陽,而河南蕭條,未及修理,改除揚州刺史,鎮石頭。永初元年,封廬陵王,食邑三千戶,移鎮東城。高祖始踐阼,義真意色不悅,侍讀博士蔡茂之問其故,義真曰:「安不忘危,休泰何可恃。」明年,遷司徒。高祖不豫,以為使持節、侍中、都督南豫豫雍司秦并六州諸軍事、車騎將軍、開府儀同三司、南豫州刺吏,出鎮歷陽。未之任而高祖崩。


義真は尋いで都督司雍秦并涼五州諸軍、建威將軍、司州刺史とされ、持節なるは故の如し。段宏を以て義真が諮議參軍と為し、尋いで宋臺黃門郎に遷り、太子右衞率を領す。宏は鮮卑人なり。慕容超が尚書左僕射、徐州刺史と為り、高祖の廣固を伐てるに、降じて歸す。太祖の元嘉中、征虜將軍、青冀二州刺史と為る。左將軍を追贈せらる。時に義真の將に洛陽に鎮ぜんとせるに、河南は蕭條とし、未だ修理せるに及ばざれば、改めて揚州刺史に除せられ、石頭に鎮ず。永初元年、廬陵王、食邑三千戶に封ぜられ、東城に移鎮す。高祖の始めて踐阼せるに、義真が意色は悅ばしからざれば、侍讀博士の蔡茂之は其の故を問う。義真は曰く:「安んぞ危うきを忘れざらん、休泰に何ぞ恃むべきか?」と。明くる年、司徒に遷る。高祖の不豫に、以て使持節、侍中、都督南豫豫雍司秦并六州諸軍事、車騎將軍、開府儀同三司、南豫州刺吏と為り、出でて歷陽にぜんとす。未だ任に之かざるに、高祖は崩ず。


(宋書61-5_言語)




何度見返しても、欠片ほどにも罰されたっぽい気配がない。またそれについての風評も、欠片ほどにも紛れてこない。じゃあこれ劉裕の権威が圧倒的だったからかって聞かれると、まぁ、それはねーですわよね、と。あるいは、苦労を知らないボンボンだとこんなもんなんでしょう

かね? よくわかんないです。


劉義符劉義真周りに粉飾がないはずはないとは思うんだが、その基準をうまく見いだせずにいる。全てを false にしたら話が始まらないわけですが、そもそも辻褄なんてもんが合わないのが史実な気もするしなあ。まぁ、ちまちま神経衰弱でもやってきましょう。

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