ほんとうのこと(1) 《支倉柚衣》


2051年8月8日 レビュアー 支倉柚衣



[注:人権運動家グウェン・L・ダットは性別にも人種にも階級にも回収されない普遍的個人・世界内自己としての概念「フルダ」を提唱した。2030年代には、グウェンの思索をもとに私的なものでない公共的一人称(英・ldhaルダ)が創案された。それに基づき日本語でも同様の概念である人称「」が一般化定着した。このレビュー文中に使用されているのもそれである]



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不思議な巡り合わせですが、が分館職員として、この作品にアクセスすることになるとはとても妙な気分です。


フーリダヤムは忘れられた作品です。いまでは言及されることもめっきり少なくなりました。もともとカルト的な人気で時代のメインストリームに乗ることのなかった小説であり、文学作品としての真価も確定しておりません。受容のされ方が特殊であったために消費され尽くされなかった。ただそれだけのことでしょう。


当時あれこれと飛び交っていた憶測に、作品が顧みられなくなったいまだからこそ、あえて光を当てようと兌は思います。もちろん兌の知る真実とて物事の一面を照らすだけでしょう。それでも長い時が移ろいました。黙っているより言葉を紡ぐこと、その美しい意味を教えてくれたのは何よりも眞淵祭文なのですから。


兌は、フーリダヤムの作者眞淵祭文の妹です。フーリダヤムは紛れもなく兄の作品ではありますが、一方で兌が書いたとも言えます。なぜなら兄はほとんど読み書きができなかったからです。いわゆる失読症ディスレクシアは現代でこそ日常生活に支障がない程度に治療することもできますし、補助デバイスも揃っていますが、21世紀初頭の当時には、地道な訓練で症状を緩和するしか方途がなかったのです。そう兄はディスレクシアでした。文字を読むことは彼にとって苦役であるばかりでなく、どこか隔絶した世界の出来事なのでした。


ですけれど――それは兄の言語空間が貧困だったということを意味しません。むしろ兄は豊穣な音と言葉の楽園に住まわっていました。読み書きのできない兄でしたが、無数の説話や口承文学を音声情報として浴びるように取り込むことで濃密な世界像を構築したのです。


浪曲、落語、講談、義太夫節、童話、朗誦、神話、歌謡曲、ポエトリーディング、ラップまで……活字を介さない言語受容において兄はとてつもない才能を発揮しました。獲物を丸呑みにする蛇のように虚空に消えていく言葉たちへ飛びかかり挑みかかりました。文字を知らぬままであるのに途轍もない語彙を身に着けていた兄のような人間を兌は他に知りません。


それはそれは美しい声で兄は次から次へと物語りました。世界に散らばる100万の部族の古老たちを足したよりも雄壮に味わい深く語りました。どんな歌姫よりも清冽かつ情感いっぱいに喉を震わせました。石や紙の上に固定化されることのない言語、そう、いわば風や水に書かれた文字を兄は捕まえることができたのです。淡々と、あるいは抑揚豊かに――時には神託の巫女のように激しく、また時には、うわごとめくこともあり、そうかと思えば子供のように拙く語ることもありました。千変万化する兄の語り口はいつも新鮮な驚きの源だったのです。


でも、運命はさらに過酷な試練を兄へ突きつけました。

兄が16、兌が14になる年のことでしょうか。

兄の美しい語り――めくるめく三千世界を紡ぎ出すあの声が奪われたのです。失読症の次に降りかかった試練。それは失声症でした。


ある日の朝、兄は自分の声が聞こえないことに気付きます。

突如声を出すことができなくなった原因はフィジカルなものではなく、かといって多くの失声症の原因となるストレスや心的外傷でもなさそうでした。いつだって兄は幸せそうでしたし、どんな幼子よりも生命を謳歌しているように見えました。


読むこと。書くこと。さらに語ることまでを失った兄に兌ができることはなんでしょうか。落胆したのは兄よりもむしろ周囲の人間たちでした。それほどまでに兄の語る物語に喜びを感じていたのです。それでも兄はひとり幸福でしたし、なおも語ることをやめませんでした。しかし声を失ってどうして語ることができるのか??


ええ、兄は声なき囁きを続けたのでした。音も文字もない世界で唇だけをひたすら動かし続ける兄。そんな兄を放っておけるはずがありません。他の家族は諦めてしまいましたが兌は唇の動きを読み取る技術をひたすらに磨きました。読唇術。これは聴覚障害を持つ人が必要に迫られて身に着けることが多い技能です。唇の動きだけで完全に過たず言葉を読み取ることは容易ではありません。兌も実の兄でなければこれほどの精度で読唇術の用いることはできなかったはず。その証拠に兄以外の人の唇はほとんど読み取ることができません。幼い日から兄の物語、ひいてはその唇を動きを見つめてきた、それが成果なのでしょう。


そんなわけで兌は兄の日常の用を足すと同時に兄の声なき語りをなんとしてもどこかに記録しようと思い立ちました。ヨミヨムに登録したのも兄ではなく兌なのです。兄は溢れんばかりの物語でいつも充たされていました。その溢れ出ようとする奔流の一筋を掬い取ってインターネットの中に注ぎ込もうと兌は目論んだのでした。


――フーリダヤム。そうです。あの謎の作品はこうして書かれることになったのでした。プロフィールに書かれた『唖者の口述筆記』とはデマカセでも韜晦でもなく、たんなる事実に過ぎません。ミステリアスなポーズで読者を煙に巻こうなどとは考えもしませんでしたし、読者の反応も気になりませんでした。兌はただ兄の言葉をなんらかの形に残すこと、それだけで精一杯だったし満足でもあったのでした。


兄妹は二人三脚で物語を紡ぎ出します。人気もなく閲覧数も伸びませんでしたが、兄と兌は熱に浮かされたように書き続けたのでした。眞淵祭文というペルソナをまとって二人は誰もいない空に羽ばたいたのでした。少しずつ反響が得られるようになっても兄のペースは変わりませんでした。ただ語ることの幸福に包まれて兄はふわふわと笑っていたのでした。


変化が訪れたのは、いつだったでしょうか。共通の幼馴染だったU君が兌にいままでとは違う感情を向けてきたあの2009年の冷夏――そう遊び友達ではなく女性としての兌を発見してしまった彼の驚きに兌もまた驚いたのでした。彼が兌に心を寄せていることが日に日に強く感じられました。兌もU君を憎からず思っていましたが、兄との共同作業より優先するものはありません。残酷にも兌はU君の気持ちを突き放すでも受け止めるでもない曖昧な態度を取り続けていました。次第にU君は兄と兌との間にインモラルな関係があるのではないかと邪推するようになりました。兌と兄の関係は不健全で危険なものだと決めつけるだけならまだしも、どこかいじけたところのあるU君は、こともあろうに兄の失声症を演技ではないか、妹を側に引き留めておくための虚言ではないかとまで言い放ったのでした。


ここへきて兌はU君との絶縁を宣言するに至りました。気弱で優柔不断な少女だった兌もついに他者を呪うための自分の言葉を聞いたのでした。


「あんたなんて死ねばいい。その顔は二度と見せないで。全部嫌い。あんたもあんたの薬指の馬鹿みたいに伸ばした爪も――あんたの触れたものの全部ひとつ残らず燃やしてやりたい」


それはカラオケボックスの一室での出来事でした。U君は兄が歌など歌えないことを知っているくせにいつもカラオケに誘ったのでした。ニコニコと文句も言わず付き合う兄も兄でした。誰かの歌に手拍子で合わせたり踊ったりするだけの何が楽しいのでしょうか。


U君は兌の剣幕に衝撃を受けて、真っ青な顔でカラオケルームを飛び出しました。お人好しの兄が追いかけようとするのを止めて互は情けなさに涙を流していました。兄に免じて兌はU君と表面上は仲直りすることにしましたが、彼との間に生まれた亀裂は絶対に埋めようのないものだったのです。


U君。彼もまた書く人でした。彼が手掛けるのは物語ではありませんが、優れた物語に決してひけを取らない美しいコードです。練達のプログラマーであったU君は、兄妹を引き離すために一計を案じたのです。口述筆記の作業から互を引き下ろすために唇の動きを読み取り文字にする画像解析ソフトの製作に着手し、それをもって兄妹の絆に楔を入れようとしたのでした。U君と彼の仲間たち(シェンカー・リーと呼ばれるハッカー気取りのサークル)が精度の高いアプリケーション〈口パク野郎の戯言lip-sync:BS〉を完成させるのに半年とかかりませんでした。


こうして兌はお払い箱となったのでした。兄との紐帯を断たれたようにに感じた兌は存在意義を見失いました。兌は兄を支えていたと信じていたのですが、実のところ兌の方が兄に支えられていたのでした。U君の言う通り、兌の成長のためには兄と距離を置くことが必要だったかもしれません。しかし気難しく頑固だった少女はそのことを認められません。〈口パク野郎の戯言lip-sync:BS〉に仕事を取られても兌は兄と離れようとしませんでした。これはもう意地を張っていただけでもあったでしょう。あるいは恐ろしかったのかもしれません。兄と離れた暮らしをまるで知らなかったのですから。


ついにU君は踏み越えてはいけない一線を超えてしまいました。彼は吃音混じりの早口で兄を急き立てたのでした。


「お、お、おまえが居たら‥‥ゆゆ、ゆ、柚衣は自由になれない。お、おまえは妹の人生を滅茶苦茶にしているんだぞ。生きてたって、や、やや、役に立たない。ただみんなのお荷物になるばかりだ。わ、わわかるだろろろろ?」


きっと兄は天使のようなあどけなさで刃物のような言葉を受け止めたはずです。彼にはどんな悪意も刺さらなかったのです。そうして兄は、タロットカードに見るがごとく不吉な塔への道を歩き始めたのでした。東山給水塔は兄のお気に入りの場所で、フーリダヤムにも同型の建築は登場しますが、本当に兄はそこを死に場所に選んだのでした。


疑うことを知らない兄は、U君の言葉を真に受けて、妹の幸福のために、人々の安寧のために給水塔へ上ったのでした。誕生日に開放される給水塔で兄は生まれた日と同じ日を地上最後の一日にしようと決めました。フーリダヤムの完成を待たずにそんなことをすることはないと油断したのが間違いでした。


兄は、活字となって自分の言葉が世に残ることになど、まったく執着していませんでした。言葉はそれが流れ出た瞬間だけにしか存在しない。それが兄の思想であり、揺るぎない真実でもありました。言葉も命も刹那の瞬間だけ空気を震わせて消えゆくものに過ぎませんでした。


兄は庭仕事や日曜大工に使うエプロンをいつもまとっていて眠る時以外にそれを外すことはなかったのでしたが、その日、塔の入口の前にデニム地のエプロンがきれいに拡げてあったのを思い出します。エプロンの上に墜落しようと思っていたのかもしれません。それは落下地点の目印であり、遠くないいつかに彼が還る場所でもあったのでしょう。その場に駆けつけた時には、塔には誰も何も残っていませんでした。


いえ、ただひとりU君だけが居て、虚ろな瞳で兌を眺めると「一足遅かったな。病院に行け。ここに来ても無駄だ」と言ったのでした。この時に限ってU君はまったくどもることはありませんでした。


「――あなたはどうして? 何を見たの?」


U君はしばらく何も答えませんでした。兄を追い詰めたのは自分である。しかし兄は最後まで幸福の絶頂にいるように見えた、とU君は言い訳がましくまくし立てました。しかし兌はそれを信じます。兄なら絶望のためでなく、あり余る幸福の帰結として死を選んでもおかしくありません。


この世にはそんな自殺もあるです。一片の悲しみも不満もなく、またためらいさえもなく命を擲つ人間が。それが眞淵祭文。兌の兄の話です。


(続く)




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