第38話 加藤と僕③
小学校六年生の秋。
日に日に増す寒さが、受験が近づいていることを知らせてくる。
帰りの会が終わる。
今日は塾がない日だけど、僕はいつものごとく、誰とも話さず帰る。
受験勉強は、塾に行く日はもちろん、塾のない日こそ大変だ。
授業の予習、そして復習を何度も繰り返す。
時間が足りないくらいだ。
もっと、もっと勉強しないと、第一志望に合格なんてできない。
クラスも変わって、疎遠になった葉菜と隼人のことを思い出すこともなくなっていった。
僕は足早に帰る。
帰る間にも、昼休みに解いた問題を頭の中でもう一度解き直す。
そうすることで、どうにか時間を捻り出そうとしていた。
だから、僕の耳に入ってきた言葉に、すぐには気づかなかったんだ。
「ごめん」
その声が葉菜なものだと気づくのに数秒かかった。
集中している時はいつも、耳に入る言葉も、耳から出ていくだけ。
でも今日は違った。
目の前を葉菜が走っていった。
僕と葉菜の距離はどんどん開いていく。
葉菜は僕に気づかなかった。
曲がり角で見えた葉菜の横顔。
葉菜の目元が太陽の光を受けて光る。
頭の中で葉菜の声が繰り返される。
葉菜の声が、震えていた。
思い出していた算数の問題が霧散し、僕は反射的に葉菜が走ってきた方を見る。
ブランコの柵に隼人が座っていた。
僕は隼人に近づき、その肩をゆすった。
「おい!」
隼人は反応しない。
「葉菜に何したんだよ!」
隼人の焦点は合わないままだ。
腹の底から怒りが込み上げてくる。
消えかけていた葉菜への想いがよみがえる。
『あきとー!』
『この問題わかんないよー、どうやって解くのー』
『あきと天才!!』
忘れていたはずの葉菜の笑顔が咲いた。
弾んだような声が、頭に広がる。
純粋で、まっすぐな葉菜が、僕の心にずっといた。
「葉菜、泣いてたぞ……?」
僕は葉菜が好きだった。
葉菜を笑顔にできるのが自分ではないと気づいても、葉菜が幸せならそれでいい、と思ってた。
それでも辛かった。
受験勉強に熱中して、気を紛らわすことで自分の気持ちに蓋をしていた。
二人を見ないようにしていた。
でもそれは、間違いだった。
「葉菜を守るのが隼人の役目だろ! なんで泣かせてんだよ……!」
僕だったら、葉菜を泣かせるなんて絶対にしなかった。
隼人は、その真っ黒な瞳に僕を映し出した。
「あきとも、葉菜のこと、好きだったんだよな」
「好きだよ」
僕は迷わず答えた。
でも、次の瞬間。
隼人の言葉が僕の胸を鋭く突いた。
「じゃあ、なんで俺のところに来た」
はっとした。
「葉菜、泣いてたんだろ、それを見たんだろ。俺を責める前に葉菜に駆け寄るべきだったんじゃないか」
ぐっと奥歯を噛み締めた。
僕は踵を返し、葉菜が消えた方向に走り出した。
足が重い。
受験勉強のせいだ。
運動なんてするだけ無駄だと思っていた。
運動する時間を勉強にあてた方がいいと思っていた。
息が荒い。
葉菜が好きだってことはずっと前から気付いていた。
受験があるから、友達が心地いいから、隼人には敵わないから、隼人と付き合っているから。
そうやって自分の気持ちを隠して、現実から逃げるのだけは速かった。
ただ自分を傷つけたくなかっただけなのに。
葉菜のマンションに着いた。
小さいころから三人でよく遊んだこの場所に、今、一人でいる。
震える手をインターホンに伸ばした。
その手は空をきる。
逃げたんだ。
僕は、また。
幼馴染が変わっちゃった…… 山吹ゆずき @Sakura-momizi
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