*鬼の唄
太陽が海に引きずり込まれる。
今際の際に真っ赤に輝く夕日が海面に光の道を作る。
なにかに突き動かされ、私の足は光の道に沈んだ。薔薇の棘で引っ掻いたような傷だらけの両足は、ひんやりと海に体温を奪われていく。海水が傷に沁みて痛くて、なんだかうれしかった。
「やーい」
ちゃぷんと音がして振り返る。
男が立っていた。
黒い髪が肩あたりまで綺麗に揃っていて、人形のように美しい顔をしている。どこか西洋的な顔立ちをしているのに、男は着流しを身に纏っていた。真っ黒な着流しは、見たままに薄い生地をしている。
冷たい海の浅瀬に立つ私は、男の姿にぶるりと身体を震わせた。冷え冷えとした風が頬を撫でる。
私に影に光の道が隠れている。男の足元は真っ暗だった。囃し立てるような一声はそれきりで、男はちゃぷんとまた海に踏み込んでくる。境界が曖昧になっていく。
「おまえさん、入水自殺でもする気かい」
男はふふふと笑った。うれしそうだった。ちゃぷん、ちゃぷんと波をかき分けて踏み込んでくる。くる、近くにくる。距離にしておよそ三歩。
私は前を向いて、また光の道を歩き出した。太陽が死にたくないと叫んでいる。光の道が細くなっていき、断末魔が聞こえてくるようだった。
「おまえさん、あそこの家から出てきたろ? ありゃ酷いところだね。豚のような男と鳥のような女がいる。毎日うるさかろう」
男は私の隣を歩く。歩幅はバラバラだった。私に合わせる気もなく、ましてや自分の歩幅もわかっていない。そんな歩き方で、奇妙だった。
ざぶんと波が押し寄せる。半分ほど沈んだ私の身体は重く、波に押されてもびくともしなかった。せっかくなら大嵐がやって来て、波が荒くなって、私を丸呑みしてくれたらよかった。私はついと視線を動かした。一瞬で沈みそうな太陽以外、静かで穏やかだ。
「おまえさん」
そうだ。太陽以外にも、いた。男は静謐を壊していく。その表情はどこまでも愉しげに歪んでいて、私がどうなるのか見物しようというのが透けて見えた。
私が立ち止まると、男は二歩進んで振り返った。私を見ながら、一歩下がり、また一歩下がり、そこで立ち止まる。男と私は四歩の距離だけ離れている。
「いきたいかい?」
この先へ、と男が指をさす。
「あ」
沈んだ。消えた。
あったはずの太陽の叫びが、濃い夜の色に押しつぶされていった。もう二度と、同じ日の目を見ることができない。
「いきたいかい?」
男はまた問いかけた。
私はゆっくり首を振る。再び歩き出す。
「ほんとは、いきたくないわ」
私の言葉を聞いた男の、乾いた笑いが虚しく海中に沈んでいく。
「ならば足を止めればいい」
私は足を止めずに尋ねてみた。
「言ったら、止めてくれる?」
すれ違うとき、男は私を見ることもなく、なにかに浸るように目を閉じていた。
「いいや」
私はやっぱり歩いた。
男が童謡を口遊むように言う。
「おまえさんが止めてほしいと言っても俺は止めないよ」
「そう」
「そうともさ」
「ならもう放っておいて」
「目の前で死ぬ人間を放っておくと思うかい」
そんなの知らない。
「思ってもない言葉に聞こえるのだけど。そもそもの話、あなたは誰? 私を知っているような口ぶりで薄気味悪いわ」
ちゃぷん。
音がした。
男からなんの返事もないことに戸惑って、戸惑う自分にまた戸惑った。
おそるおそる振り返る。
立ち止まったところは、ちょうど浅瀬の終着点だった。すでに腰まで浸かっているからか、怖いという感情はなかった。
男は、いなかった。
ざぶんと押し寄せては引き返す波、砂浜まで見渡しても、人一人いない。
音がした。
反響するように響く音が、波の音と風の音に混ざっている。
どこからか声がする。
鬼は外
福は内
おにはそと
ふくはうち
さあさあおいで おいでなされ
おにさん おにさん
こちら
手の鳴るほうへ
おにはそと
ふくはうち
おまえさん おまえさん
こちら
音の鳴るほうへ
ちゃぷん。
ちゃぷん。
音がする。
私は沈んでしまった太陽のあとを追って、前へ、足を踏み出した。
どぼん。
とあるあやかしの怪奇譚 凩玲依 @rei0624
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