アンダーグラウンド
百架
ROUND1 闘いを捨てた男
昼下がりの海は、どこまでも静かだった。
陽射しを受けて光る水面と、ゆるやかに押し返す波音。
その中に、ひときわ大きな男がひとり、小舟の上で網を引いていた。
名は――カイ。
この港町に流れ着いて、三年目になる。
漁に出て、獲れた分だけを市場に持ち込む。
誰とも馴れ合わず、余計な会話もしない。ただ、生きるだけの日々。
「カイさん、また大漁だな」
市場の老人が声をかけても、彼は軽く会釈するだけで、ほとんど口を開かない。
この町の人間は、彼の過去を知らない。いや、知ろうとしなかった。
“噂”がすぐに広がるような土地ではない。皆、自分のことで精一一杯なのだ。
しかし彼の体は、すべてを語っていた。
傷だらけの拳。幾重にも重なった古傷。
そして、その瞳の奥に、言葉より重い“何か”が沈んでいることを。
その夜、カイは静かな浜辺に座っていた。
小さな焚き火の灯。
酒も煙草もない。ただ、夜風と波の音だけが友だった。
その時だった。
「……あなたが、カイですか?」
背後から声がした。
振り返ると、そこにはまだ少年の面影を残した若者が立っていた。
細身だが、まっすぐな目をしている。
何よりも、その目には“覚悟”の色があった。
カイは焚き火から視線を逸らさずに問う。
「……なぜ、ここに来た」
若者――ナオトは、ゆっくりと砂を踏みしめ、焚き火の向こうへ歩み寄る。
「……あんたを探してた。長いこと」
その声は震えてはいなかったが、胸の奥で何かを必死に押し殺しているようだった。
カイは一瞬だけ目を細める。
だが、それ以上は何も言わなかった。
沈黙が流れる。
波の音だけが、二人の間を埋めていた。
ナオトはもう一歩、焚き火に近づいた。
その目は、夜風の中でも揺らがなかった。
「教えてほしいんだ。
あんたみたいな人間が、どうやって強くなったのか。
そして――どうして、こんな場所で生きてるのか」
カイはその言葉に返すように、火にくべた小枝を一本押し込んだ。
パチ、と音がして、火の粉が弾けた。
「……帰れ。ここは、拳を置いた者の場所だ」
それだけを言い、視線を夜の海へ戻す。
ナオトは答えなかった。
ただその場に立ち尽くし、拳を握っていた。
その瞳に宿る、拭いきれぬ闘志と――どこか怯えにも似た色。
カイは、それを見た。
そして、その奥に、かつて自分が置き去りにした“誰か”の影を感じた。
風が焚き火を揺らし、赤い光がふたりの顔を照らす。
静寂の中で、言葉は交わされず、それでも何かが確かに動き始めていた。
――過去が、波のように、足元に打ち寄せている。
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