第29話 闇の白魔(三)
市門の中に入ったすぐのところは宿場街で、運のいいことにすぐに宿は見つかった。未亡人だという女主人が経営する小さな宿で、クエルクスがいつまで滞在するかわからないと述べたのに理由を問うこともなく、何も言わずに二人部屋を用意してくれた。
部屋は簡素だが小綺麗に整えられており、二つ並んだ寝台の上には厚手の毛布が用意されていた。寝台の横には小さな本棚があり、客人の暇潰しのためなのか、数冊の本が入っている。
市門に着いた頃、ラピスはほぼ意識も無く小刻みに震えていたが、室内の暖かさでいくらか体の緊張も緩んだのだろう。クエルクスが寝台に寝かせると、ラピスはすぐに落ち着いた寝息をたて始めた。
ラピスの寝顔に苦痛が見られないのを確認して、クエルクスが星読みの洞から持ち出した布などを片付けていると、宿の女主人が部屋の扉を叩いた。ラピスが熱を出しているのを見て濡れ布巾とあんかを持ってきてくれたのだった。女主人は慣れた手つきでラピスの顔を拭ってやると、食事を取りに来るようにとクエルクスに言いおいて部屋を出て行った。
「まったく……ラピスは相変わらず自分のことには呆れるくらい無頓着だ」
安堵したら、つい小言じみた言葉がクエルクスの口から溢れた。熱をもった額に手を当ててやると、ラピスの口元が気持ちよさそうに笑みの形を作る。
「こんなに、無理して」
——無理をさせているのは自分じゃないのか。
「もうこんな危険から、逃げたいと言ってもいいくらいでしょうに」
——ならば「逃げろ」と、なぜ自分が言わない?
普段なら白いラピスの頬がいまは朱に染まっている。室内の静寂の中、ラピスの規則的な寝息は思いのほかよく聞こえた。
——もし、もし万が一、父様の身に何かがあっても、クエルは私と一緒にリアにいてくれる?
——
峠で交わした言葉が頭から離れない。
クエルクスは強く唇を噛み、音を立てないように寝台に腰を下ろした。リアを出てからもうどれだけ経ったか。艶やかで美しかったラピスの髪の毛は、伸びるままにしたせいで不揃いになり、毛先にはところどころ傷みも見られる。頬はいくぶんか痩せ、もともと華奢だった肩には鎖骨が浮き出てしまっている。
そしてその体の痛みをさらに蝕むのは、きっと父王を残して故郷から離れた不安だろう。
「……ラピス様……」
そっと、クエルクスはラピスの頬に手を当てた。
「……ごめんなさい」
吐息にのって溢れた言葉に応えるのは、暖炉で燃える木が爆ぜる音だけだった。
ひととおり荷物の片付けを終え、クエルクスは地図を広げてこの後の道筋を確認していた。山から降りれば吹雪の勢いはいくらか減じたが、部屋の壁についた木枠の窓の向こうではまだ雪が降り続けている。明日になれば地面に積もる雪も深くなるだろう。しかも病み上がりのラピスに無理はさせられない。道行きは当初の予定より遅れそうだ。ただ、半島に冬が訪れた場合に大雪となるのは珍しいことではない。そのため行政の対応も慣れたものだ。山脈に隣接した国々であればなおのこと早く順応する。雪が止まなくても、旅行者の行程を大きく阻んでしまうほどの影響が及ぶことはないだろう。
——早馬なら五日、遅れても一週間か。
比較的大きな都市であれば、多少の悪天候でも郵便馬車は動くはずだ。手紙を届けるなら鳩や烏に頼んだ方が早いが、やはりそれは出来ない。クエルクスは地図を睨み、郵便馬車の道程と時間を計算する。そうして地図上でしばらく指を滑らしていたが、やがて脇においた鞄から帳面と羽ペンを取り出し、椅子から立ち上がった。
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