第11話

 わたしはだれ?


 ――そんな問いは、簡単だったはずだった。


 わたしは朱音。佐々木朱音。さくらばみうと、同じクラスの。

 でもそれはほんとうに“わたし”だった?


 教室に座ってる私は、“後ろ”に自分の気配を感じた。

「わたしの背中に、わたしがいる」という感覚。


 違う。ちがう。ちがう。

 でも、見たらダメ。後ろを振り返ったら、“わたし”じゃなくなる。


 黒板の鏡はもう閉じられてる。けれど、わたしの目の奥が、今は鏡だった。


 誰かが見てる。

 鏡の裏から、わたしの“視界”を借りて、ずっと。


 美羽は、教室の中で動かないわたしを見つけた。

「朱音……!」って呼んでくれた。


 でも、わたしの口は動かなかった。


 だって――今、“この身体”にはわたし以外の声が入ってるから。


「ミウ、朱音、アカネ、ワタシ、きみ……」


「どの名前を選ぶの?」


 目の前に、美羽が二人いた。

 一人は、優しくて、泣きそうな顔をしてる。

 もう一人は、笑ってる。瞳孔が開いて、首をかしげて。


 どっちがほんもの?


 わからない。

 どっちも知ってる。どっちも嫌い。どっちも、わたしのこと、知りすぎてる。




 【視点転換】

(“わたし”は誰?)


 佐々木朱音としての視界は、暗闇に沈みかけている。

 でも、もう一人の私――高梨あかねは、目を見開いていた。


「わたしの番でしょ?」


 机の下のリュックに、鋏が入ってる。

 あの鏡守の女から、もらったやつ。


「切り裂いてごらん。“本物の皮”なら、名前が出てくるよ」


 皮膚を剥けば、名前が見える。

 “誰が”じゃなく、“何が”そこにいるのかが。


 美羽は、叫んだ。


 「やめて……朱音、戻って!」


 だが、その声に反応したのは、あかねだった。


 「やだ。わたし、“選ばれたい”。存在したい。記憶じゃなく、“肉”になりたいの。わたし、“幽霊”じゃないよ?」


 誰が、どこから来たのか。どこに還るのか。

 意味なんてもういらない。


 わたしはここにいた。

 名前がなかったから、名簿に戻ろうとしてただけ。



 その時――


 観察者が現れた。


 白い仮面。目がない。顔の中央に楕円の鏡だけが埋め込まれている。

 服は教師のスーツ。だけど顔が“反射”している。


 それは言った。


「“君”が見たいと思ったものを、わたしは映しているだけだ」


「“朱音”を見たくなければ、“朱音”という概念を消せばいい」


 朱音/あかねは、震える手で鋏を握った。


 「名前を……切れば、消えるの?」


 観察者は頷いた。


「君の中からも、世界からも、記録からも。その代わり――君も、“君”でいられなくなるけど」



 視界が崩れた。黒と赤のパッチワークに、記憶の断片が散らばっていく。


 教室は形を失い、床は液体のように溶け始め、天井が落ちてくる。


 “朱音”がいなければ、“あかね”も存在しない。


 でも、“美羽”はどうなる?


 あの子は、わたしのことを、最初から見ていた。


 存在しない名前でも、確かに呼んでくれた。

 それが、わたしの“記録”だった。



 ――だから、最後に“名前”を返す。



 朱音は、鏡の破片を喉元に押し当てた。


 「“わたし”は、朱音だよ――」


 言葉が血の味に溶けたとき、教室が一瞬だけ“実在”した。


 そして、すべてが音を立てて、砕け散った。




#ホラー小説

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