第十七話 『認識が不明瞭、それが理由で踏み出せ無い場合、それはきっと最悪すら受け入れる義務が発生する』

 お友達みたいなこと。

 ボクは既に幽妃ちゃんと友人になれていると思っていた。


 勘違いなのだろうか。


 ボクが勝手に友人になっていると、そう勘違いしていただけなのだろうか。


 そんなことが頭に浮かんで、じわっと冷や汗が背中ににじむ。

 否定も肯定もしないでいると、幽妃ちゃんが「クラスの子が言ってたの」と言葉を続けた。


「他の子は普通、お友達って放課後とか、休みの日とかには遊んだりするものって聞いたよ」


 幽妃ちゃんの言葉は間違っていなかった。

 ボクと幽妃ちゃんは学校以外で顔を合わせることもないし、帰りもすぐに別々になる。

 そういえば今じゃ当たり前のようになっているはずなのに、幽妃ちゃんとラインだってしたことがない。というより、彼女はスマホだとか固定電話だとか、およそ遠隔での連絡手段と呼べるものを持っていない。


「私ね、誰かと一緒に遊んだりお出かけしたこと、今まで一度もないんだ……」


 彼女の友人というものの認識が休日や放課後を共にするもの、であるのなら、確かにボクらは友人とは言えないかもしれない。

 思えば連絡手段がなくったって、学校で約束すればいい。

 なのに、今の関係を言葉に表すのなら、学校で言葉を交わすだけの関係。よくありがちな「クラスが変われば話すこともなくなるだろう表面上の薄っぺらいクラスメイト」と言えてしまう。

 ボクが一方的に感情を押し付けているだけで、幽妃ちゃんからすればしょっちゅう絡んでくるくせに会話しかしたことのない変な人、であるのかもしれない。


「ぁ、ボク……」


 何か弁解をしようとして、けれど何も言葉が出なくてその先が続かない。

 焦りで喉が渇いてくる。汗も止まらない。

 その顔が幽妃ちゃんにでも分かるくらい酷く映っていたのだろう。


「ご、ごめんね!」

「なっ何!?」


 幽妃ちゃんが慌てるように全力の声で張り上げた。

 全力といっても叫び声としては小さすぎるのだが、それでも彼女が大きな声を出そうとすることは滅多にないから、思わず驚いてしまう。


 若干、身を引いたボクに対してもう一度「ごめんね」と謝って、幽妃ちゃんが言葉を紡ぐ。


「変なこと言っちゃって……まるでお友達じゃないみたいなこと言って……違うよ? 歩くんのことはちゃんと、友達だって思ってる、よ?」

「あっ」


 ああ、なんだ。よく考えなくても、幽妃ちゃんはそんな酷いことを考える子ではないことなんて分かるじゃないか。


「はあぁー……」


 途端に安心して、立ち上がろうとしていた椅子にだらりともたれ掛かった。

 我ながらなんて早とちりをしていたんだと、さっきまでの自分が恥ずかしくなる。

 最初から幽妃ちゃんは友達らしいことをしていないと言っていただけで、友達じゃないだなんて一言も言っていないのに、なに意味の分からない妄執に囚われていたんだ。そのせいで幽妃ちゃんに謝らせて、ホント、ボクははなんてバカだ。


「でもだからこそ、歩くんとは一緒にお出かけしたり、ご飯食べたりしてみたいなって、きちんとお友達らしいことをしておきたいなって、それだけだよ」

「だよね、そうだよね。……もおー」


 椅子に倒れたまましばらく悶えてしまう。


 そのまましばらくそうしたままでいると、どうして彼女が突然ボクと遊びたいだなんて、言ってくれたのかが頭の中で整理がついた。


 そういえば、本人も言っていた通り、幽妃ちゃんが学校外で誰かと遊びに出かけたなんて話、聞いたことがない。

 そもそもボク以外のクラスメイトが、幽妃ちゃんと日常会話を交わしていることを見たことがない気がする。


 おかしな子、というのがクラスメイトたちからの幽妃ちゃんへの評価だった。

 なにも入学した直後からそうだったわけではなく、高校生活が始まってから六月になるくらいまでは、むしろ大が付くほどの人気を得ていた。主に男子から。

 白髪に紫の瞳といった日本人離れした容姿とか、どれだけ暑い日でも長袖で汗の一つも書かないところ。

 掴めば折れてしまいそうな華奢な身体は、貧相というよりは美術的な観点のみを追求された自我の無い完全な人形のようで、まさに淑やかという言葉が相応しい。


 入学当初は、当時からテレビやインターネットで絶大な人気を博していた同じクラスメイトでアイドルの延喜波音えんぎなみねちゃんや、包容力に満ちた……じゃなくて慈愛の籠った笑顔が素敵な現生徒会長の金剛こんごう先輩と並んで、幽妃ちゃんは学年問わず注目の的であったはずなのだ。


 けれど。


 けれど、彼女はいつまでも絵画に写された人形だった。


 他人の話には受け答えするだけ。部活には所属しない。昼食は食べない。健康診断は受けない。スマホも、電話番号さえ持っていない。


 人間味というものをいつまでも出さなかったのである。


 何も知らない者から見れば、まさしく完成された理想の人形だ。

 どの瞬間、どの景色を背景にしても、彼女は容易く溶け合ってしまう。

 人間の様に強い自己が希薄で、人間の側というより、自然の側の住人。


 逆説的にすると、世界に溶けあって自分と呼べるものが何もない。


 彼女を知ってしまった者には分かってしまう。文園幽妃という人間を色に表すと、穢れなき白なのではなく、染まるものがない透明なのだ。


 はっきり言ってしまうと、俗っぽいが化粧室に行く様子を一度たりとも誰も見たことがない者を、はたして同じ人間と言えるだろうか?


 そうなると、ビスクドールの如き美貌も、人間離れした体質も、ミステリアスな個人性も、途端に奇妙なものに成り代わる。


 そしてそれは彼女と幾ら会話を重ねたところで、払拭されることはない。

 気付けば、半年もたたないうちに、彼女は誰も触れられぬものとなってしまった。


 だからこそ、幽妃ちゃんが初めて一緒に遊びに行きたいだなんて自己を出したことに大いに驚いたし、喜ばしかった。


 その相手がボクだということも、もちろん嬉しかった。


 そう考えれば、誰より友達だって思われてるじゃん、ボク。


 だから、今度考えることは絶対に幽妃ちゃんの願いを叶えてあげることで、ちゃんと楽しんでもらいたいからどうするか、なのだけれど。


 幽妃ちゃん、何だったら楽しんでくれるだろう。


 彼女の方に向き直ると、ボクが考えるより先に、目の前に一枚のチラシがそっと差し出された。


「ん?」

「これ……」


 幽妃ちゃんが中身の少ない鞄を漁って取り出した紙の中には「焼きそば」だとか「じゃがバター」だとか書かれた露店と、夜空に上がった花火の絵が描かれている。


「夏祭り?」


 こくり、と小さく幽妃ちゃんが頷く。


「聞いたことあるよ。はなび、を沢山咲かせて燃やすイベントだよね」


 少々独特な言い回しの言葉にそうだよ、と首肯する。彼女は耳に挟んだレベルの話をするとき、字面をそのままの意味で使うことが多い。今回の場合、間違ってはいないのでそのままにしておこう。

 でも。確かにこの長約市では年に一度の行事ではあるが、誰もが高校生くらいまでには一度は訪れるであろうイベントにさえ、彼女は言ったことがないというのだろうか。


「えっと……」


 どう伝えたらいいのか分からないといった様子で、幽妃ちゃんの顔に少しの逡巡が映る。

 しかしそれも束の間に、幽妃ちゃんは作り物みたいに綺麗な紫の瞳で真っ直ぐボクを見据えると、たどたどしく、でもはっきりと単刀直入な言葉を口にした。


「歩くんと、行ってみたい」


 ダメかな、と傾けられる上目遣いの顔に、ドキっとして顔が一気に熱くなる。

 だから誤魔化すように身体がすぐに動いて、


「もちろん行くよ!」


 と食い気味に即答した。


「……」


 ボクの返事にきょとんと一瞬目を丸くして、もう一度確認する。


「ほんとう?」

「凄く行きたい!」


 そこまで聞いて、幽妃ちゃんの顔がぱぁっと明るくなった。


「ふふ、お友達だね……」


 またも、不思議な物言い。

 無機質な彼女の白い頬に少しだけ朱が差して、途端に少女のように可憐になる。

 幽妃ちゃんが何度も、一緒に、一緒に……と自分の中で反復してはくすりと小さく笑う。


 幽妃ちゃんが声を出して笑っているのを見たのは、初めてかもしれない。

 こんなに可愛いんだ。幽妃ちゃんの笑い声。


 ひとしきり繰り返した後、満足いったようで「うん。じゃあ……」とボクに手を、細い指を差し出した。


「一緒にお祭り……行こうね」

「うん」


 幸せそうに、目が細められる。


「やくそく……」


 幽妃ちゃんの白い小指に、ボクの小指が絡まった。


 細い指にはきっと肉も少ないだろうに、とても柔らかくて、縮まった距離で完全なシンメトリーの形をした顔は近づいて、伝わってくる髪の匂いが鼻孔を擽って、ああもうなんだかとにかく何も考えられなくなる。


 いつまでもこうしていたい。


 でも。


「痛……っ!」


 ばさりと、白の長髪が一瞬だけ宙に浮いて、持ち主の動きに合わせて急降下した。

 途端に指は離れて、彼女の顔が苦痛に歪む。


 突然の事だった。


「だいじょうぶ!?」


 ボクとの間の地面に倒れこむ直前に飛び出して軽すぎる身体を支える。


「は、ぁーっ……っはあ、ぁ……」


 幽妃ちゃんの全身に汗一つないのが噓みたいに熱くなっていて、呼吸が激しく、荒い。


 何が起こった。

 指が触れてしまったせい?

 でも、そういった類の神経の障害だとかに掛かっているようには一度も見えたことがない。

 どうして今彼女は倒れている?


 怖い。急に倒れたのが怖い。原因が分からないのが怖い。ボクが何かしてしまったんじゃないかと思えるのが怖い。このままだとどうなってしまうのか分からないのが怖い。どうすればいいか分からないのが怖い。


 突然の事態に頭が回らなくなって、先生を呼びに行くという簡単な思考にも至らなくなる。


「うん……なんでもない、平気だよ」

「へいきって……」


 そうは言うが、幽妃ちゃんの瞳は揺らいでいる。身体は震えている。

 明らかに無理をしている。


 今にも気を抜けば容易く倒れてしまいそう。


「誰か……そうだ……先生を、いや、救急車」


 ようやく思い至った最適解にスマホを取り出そうとすると、その腕を力の籠っていない壊れそうな細腕で抑えられた。


「本当に、だいじょうぶ、だから……っ」

「でも……」

「びょういんは、駄目。だよ……」

「どうして!?」


 その問いに彼女は何も答えない。

 ただ、それは駄目と首を振るだけで、何も答えてくれはしない。


「困らせちゃうから、駄目なんだ……」

「……駄目って、なんで」


 何の発作かは分からない。でも、これを放っておいてもいいものだって、一体何を考えているんだ。一歩間違えれば生死をさまようそれだろう。


「心配しないで、歩くん。落ち着いて……」


 なんて無理な相談をするんだ。急にこんな事態を目の当たりにして、それも好きな女の子に起こっているのだから、落ち着いてなんていられない。


 でも、ボクに何ができる……?


 そうやってボクが愚行を繰り返すうち、しばらくすると本当に落ち着いたようで、あれだけ激しかった呼吸も灼熱のような身体の熱さも嘘のように消えていった。


「……もう、まったよ。へいき」

「嘘だ」

「ほんと、だよ」


 意味が分からない。

 急に倒れて、急に回復して、なにが何だか。


「……痛くなくなった?」

「うん」

「しばらく安静にしていなくても大丈夫?」

「うん。病気とは、違うから……」


 支え続けている幽妃ちゃんの身体は一瞬のうちに冷たくなっている。

 体の震えも治まって、彼女の肉体はその完全性を取り戻していた。


 理解できない、治まったと言っても、状況を把握できないボクは気が気でならない。本当に何でもないことなのか。それは絶対に嘘だ。またいつか同じことが起こって、今度も無事で済むという保障はない。そもそも、苦痛に歪む顔なんて見たくない。


 じゃあそうならないために、どうして彼女は倒れてしまったんだ、それを知りたい。


 それを聞くためと、 本当に一人でも大丈夫なのか確認するため、一度立ち上がらせようと、いつでも支えられる準備で彼女の身体を起こす。


「ありがとう。でも、一人で立てるから」


 その前に幽妃ちゃんは自力で立ち上がろうとした。が、


「ん……」


 途中で引っかかって、またボクに支えられる形になる。もう一度試してみて、同じ繰り返し。


「離しても、大丈夫だよ」


 案じるボクに気遣って、幽妃ちゃんが憂いを含んだ微笑みを浮かべる。しかし、そんな笑みを浮かべても、今の彼女は自力では立ち上がれない気がする。


 何故なら。


「あの……幽妃ちゃん」

「? ……ぁっ」


 小さな両の掌は、ボクのシャツを掴んでいた。


 これでは途中で引っ掛かるのも自明だろう。

 それに気づいて、幽妃ちゃんはすぐにハッと気づいて手を離した。


 そう、ボクは最初から支えていただけで、彼女を掴んではいない。


「ご、ごめんなさいっ」

「え、あっ、ううん!?」


 先程とは全く違う理由で手を引っ込めた幽妃ちゃんの顔が紅潮する。

 思えばボクを掴んで離さなかったのは、彼女なりのだったのかもしれない。

 言葉にできない、無意識の心の叫び。


 けれどこの時のボクは何も気づいていなくて、ただ何事もないように回復した事実に少しの不安と安堵を覚えていただけだった。


「……」

「……」


 気まずい、どういう言葉を掛けるべきか困ってしまう沈黙が過ぎていく。


 聞くべきだ。今、ここで彼女がどうして倒れたのかを尋ねなければ、この先ずっと答えてもらえる機会は訪れない気がする。

 そしてそれを尋ねなければ、遠くないうちに何かまずいことが起こる。そんな確信がある。


 なのに。


「……帰ろうか、幽妃ちゃん」

「………………うん、そうだね」


 そう言って、ボクはまた、選択肢を間違えた。


 それが悪かったんだろうね。




 

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