何も持たず、かつ失う

 朝というものが好きだった試しはない。眠くて、けだるくて、また何かをしなければならない一日が始まって、朝とはいつもわたしを苛むものでしかなかった。


 だけど、今朝は違った。

 目覚めて、昨日のことを思い出して、わたしの身体のどこかにその余韻が残っていないか確かめたくなって、住処を探す兎のように落ち着かない。

 それがたまらなく快くて、一人なのに思わずにやけてしまう。


 今日は、日曜日。ユウと会う約束を取り付けている。先生がこれからすることを、伝えておかなければならないと思ったのだ。

 待ち合わせにはまだまだ余裕がある。この時間からなら、シャワーを浴びて、いつもよりも念入りに髪を整えて、朝ごはんも食べて、服選びもメイクもしっかりとして出かけられる。


 ——と気を抜いていれば、気付けばもうこんな時間。そうなるのがわたしの常だから、気をつけないといけない。

 もう、これまでの、昨日までのわたしとは違うのだから。


「昨日は、ありがとう。楽しかったね」

 中小路さんから、メッセージが入った。

「うん、こちらこそ。またデートしよう」

 これまでで最も速く返信しただろう。次はいつ、なんて話はしない。その方が面倒がられずに済むとファッション誌に書いてあった。

 わたしたちは、カップルになったのだ。どっしり構えていればいい。


 にやける口元をテーブルに置いたメイク用の鏡越しに確認して真顔を作り、出かける準備を続ける。そうすると、ユウになんと切り出そうか、ユウは怒るだろうか、などという考えが船底から浸水するように湧いてきて、気が重くなる。

 逃げるわけにはいかない。ユウに嘘はつけない。わたしは、正しくありたい。

 鏡の中のわたしは、一文字に唇を結び、強い線を眉に浮かべている。

 それでいい、と微笑みかけてやった。



「あれ、あんたの方が先なんて、珍しいじゃない」

 待ち合わせの時間の五分前に、ユウはやってきた。いつもの、カニの前。

「たまに早く着いたって、バチは当たらないでしょ」

「——また、なんかあったのね」

 先生は相手の心を読むようなことをよくするが、わたしに言わせればユウの方がよほどエスパーだ。心を読むどころか、わたしのことは全て手に取るように分かるんだから、お釈迦様か何かに違いない。

 だけど、いかにユウがお釈迦様でも全能の神でも、わたしがユウに、秀一氏と先生のやり取りのことを話してしまおうと思っていることは分からないし、そもそも秀一氏と先生が繋がっていることを知らない。


「あとで、ゆっくり話す」

 そう言ったわたしを両断するように、ユウの人差し指がぴんと立った。

「当ててみせようか」

「なに?」

 ユウの片眉が、得意げに上がる。いつも、この表情にシビれる。

「あんた、彼氏できたでしょ」

 骨盤を引っこ抜かれたように驚いた。なぜ分かったのか。

「メイクもバッチリ、髪もツヤツヤ。それに、その服の合わせ方。あんたの夏服なんてわけの分かんない柄モノのTシャツばっかだったのに、そんな清楚そうなの着ちゃってさ。頭の先から靴まで、一人の男の人のことしか考えてません、ってオーラ丸出しよ」

 さすがに、言葉が出ない。まさか、そちらを言い当てられるとは思っていなかった。


「やっぱり。正解ね。じゃあ、今日のディナーとカラオケはあんたのおごりかしら」

 へへへ、と笑うわたしの気味の悪い声が、ユウの自説の正しさを証明した。

 わたしたちは、いつもこう。

 友達という言葉は便利だけれど、あまりに便利すぎて、わたしとユウの間にある心の、魂の繋がりを表すことは決してできないだろう。


「それで、どんな人なの」

 オムライスの山に造成工事を施すわたしのスプーンを見つめながら、ユウが意地悪っぽく笑った。

「え」

「彼氏よ。どんな人なの。つまんない男だったら、承知しないからね」

「中小路さんは——」

 とても優しい。歳は一回りほども上。紳士で、大人で、新聞記者をしていて——さすがに、そこは真実を話すわけにはいかない——、それなのに笑ったり照れたりするのが少年みたいに見えて、すごく孤独で、一人で痛みを抱えていて、それでも正義を貫こうとしていて。

 どんな人なのか、という問いに、わたしは感じるままを答えた。

「恋は盲目って言うからね。案外、蓋を開けてみればそうでもないかもよ。でも、あんたがそこまで言うんだ。いい人なんでしょうね。ルックスは?」

「悪くないかな。イケメンっていうよりは、お洒落な人」

「へー。ほんとに理想ね。これでキラキラ系だったりしたら、気が気じゃないもんね」

 男性の話になると、やはり盛り上がる。ユウはわたしと違って経験豊富だから、ユウが認めてくれたと思うと自信が持てる。


「でもさ」

 という接続詞に、わたしの安堵はさっそく揺らぎを見せる。オムライスを飾る真っ赤なケチャップがきらきら光っているのから眼を上げると、苦笑しながらこちらを見ているユウがあった。

「そんな人、ほんとにいるのかしらねえ」

「それが、いるの」

「はいはい、わたしだけの王子様ってわけね。けどさ、なんか、その人とあんたのこと客観的に見てる人がもしいたら、あんたが騙されているのに二票、実は既婚者だったってオチに一票、ってところよ」

「うわ、最悪。やめてよね、もう」

「ま、あんたが幸せならそれでいいんだけどさ。もし、なんか困ったことがあったら、いつでも言っておいで」

「ああ、ユウこそ最高。わたしの王子様」

「んじゃ、その中小路さんとやらから、わたしに乗り換えれば?」

「そうする。結婚して」

「また来世、ね」

 漫才のようなやり取りをして、二人で笑った。


「で、その袋小路さんは、どこに落ちてたの?」

「中小路さんだってば。うちの先生と仕事で繋がってる人で、それで知り合ったの」

 へー、と喉を鳴らすユウ。

 先生の話が出た。あのことを切り出す。それは今しかない。

「あのね」

「うちの会社もそんな出会いがあればなあ。セクハラおじさんとパワハラ上司とウマの合わない同僚ばっか。はっきり言って、最悪」

「あのね、ユウ」

「いいなあ、わたしも石油王か何かが迎えに来てくれないかしら」

「ユウ、聞いて」

 なによ、と可愛い眼を丸くするユウだが、わたしの顔色を見て、すぐに真顔になった。


「ユウの伯父さんね、うちの先生に計算とか申告とか依頼してきたんだ」

 ユウの顔色が変わった。そこには、わたしの言うことの意味を計るような色があった。

「それで、先生はわたしの知らない間にそれを請けていてね」

「まあ、先生からしてみれば、同じ被相続人だからね」

 ユウも、曲がりなりにも法学部卒だ。だから、わりあい理解がある。ただ、わたしがそれを申し訳なさそうに口にしているというところに引っかかりを覚えているらしい。

「それでね、伯父さんはね、きっと——」

 わたしは、たどたどしいながらもあの夜のことを全て話した。秀一氏はおそらく自らの欲のために自壊するであろうこと。おじいさんが残したものはほとんどが売り払われ、誰かの手に渡ってしまうこと。

「ユウのお父さんにどれだけのものが残るのか、分割協議書をよく見られなかったから分からない。だけど、お父さんには、ほとんど何も渡らないんだと思う」


 身内が破滅し、自分の父にはわずかなものしか残らず、おじいさんの代まで家を支えてきた資産は散り散りになって消えてしまう。

 それを、ユウが良しとするのかどうか。わたしがどうしても気にかかるのは、その点だった。だから、ちゃんと話して、必要ならば謝らなければならないと思ったのだ。


「まあ、あんたに言っても仕方ないけどさ」

 ユウのため息が、煮えた鉛のように感じられた。

「ただ、あんたのとこの先生、最低ね」

 眼を上げたが、ユウの視線は手にしたグラスに注がれていた。

「口では、わたしたちの味方みたいなこと言ってさ。その実、先に伯父さんと繋がってた。不誠実よね」

 ユウがそう言うのに対して返す言葉も、不誠実だというその感情について先生を弁護する方法も、わたしは持たない。

「そりゃ、単なる相談と正式な依頼とが違うってことくらい分かるけどさ。一声かけてくれるくらいのことはあってもいいんじゃないの」

「ほんと、そう思う。ごめんね、ユウ」

「それで、次は伯父さんばっかりが多く持って行くような話をうちのお父さんに受け入れさせるため、ハンコをもらいに来るってわけね」


 全てを話しはした。だけど、今回のことについて先生がどう考えているのか分からないから、先生を代弁することができない。

 ただ、これだけは伝えておかなければ、と思った。

「ユウ。聞いて。先生は、ただ言われたとおりに仕事を請け負うわけじゃない」

「じゃあ、何?」

 わざと秀一氏が喜ぶような請け方をして、その実、回避できるはずの税負担まで強いる。そうして、秀一氏を破滅させる。それこそが目的なんだろうと思うけれど、なぜそうするのかという部分についての知識が全く欠けていることに、今気付いた。


 口ごもるわたしに、ユウが悲しげに笑いかける。

「やっぱり、こんなこと、あんたに相談するべきじゃなかったわ」

「——ユウ?」

「あんたと会いたくなくなっちゃうじゃん。このままだったら」

 立ち上がらないで。そう思ったが、ユウはわたしの恐れるとおりの動作をした。

「待って、ユウ」

「ごめん、ちょっと今日は無理だわ」

 お願い、聞いて、と言いかけて、何も持たないわたしが何を聞かせるのだろうと思い、冷めてしまった食べかけのオムライスに眼を落とすことでそれをこらえた。

 テーブルの上、エアコンの風を受けて一回りする千円札には、それを置いたユウの悲しげな笑顔がこびりついていて、ユウが店を出てゆく音に対してわたしを無防備にした。

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